FC2ブログ

口は悪いが・・・。 

内田百閒文庫
 
 独特の言い回しや態度、性格の几帳面さ、潔癖さ、信条の硬さ、そして文章の一言一言の言葉を大事にする、言葉遣いははっきりしている。毎日の習慣である酒は欠かせない(アル中であったか)生活基調が崩れない、で食卓にそれが無いとなると途端に不機嫌になる。借金を(本人は錬金術という)してでも酒の購入費をどうにかして工面する、妻には探させ知り合いには酒はないか、と調達を依頼をする。飲んで家族が困窮になろうがそんなことは別だ、とお構いない、でも憎めない。  
 そんな作家の書く日記や紀行文、といってもただ汽車に乗って、食堂車に“連れ”と陣取ってビールを飲み続けているのがご機嫌で、あっちこっちの名所旧跡を尋ね、珍味や美味しいものを堪能し、楽しい宴席を楽しむ、ということは積極的にはせず、ただ汽車に乗って“ぼぉ~と”あちらこちらを回るのが最高なのだ、その汽車旅の記録などが出版されて印税が転げ込む、さあ借金の返済だ、と云う間もなく酒代になって、借金は相変わらず消せない。
 この旅に同伴し紀行文、日記にも頻りに登場する秘書的、執事的な役割の読者にとっては有名人の「Hマラヤ山系」なる人物がいてこそ汽車の旅を我儘に楽しむことができる。この汽車旅に欠かせない「H山氏」、を作家はいつからかカタカナ文字を入れ替えて「Hラヤ山系」と書きものの中で呼ぶようになったのはなぜなのか、いつからなのかはまだ書物を読み足りていない。
 多分、愛称としてほかの人たちにもこの作家独特の別称を付けているから深い意味はこの場合はなさそうである。彼に親しさが持てるようになる前には他人行儀の「貴君」とか「H山氏」とか呼んでいる。気難しそうな印象でとぼけた作風の作家に終生付き合うようになった切っ掛けは、日本国有鉄道のまだ若かった職員だったH山氏がその気難しそうな作家への内部機関誌の原稿依頼が切っ掛けとなったようだ。
 この「Hマラヤ山系」こと「H山三郎」氏が作家との長いお付き合いを『実歴・阿房列車先生』(単行本では1965年出版、文庫本では1983年刊行)という著書で紹介していて、その文庫本が2018年9月に再版されそれを面白そうだ、と手にして初めて読んでみた。  こちらの好きな作家の代表的な“乗り鉄”エッセイのタイトル『特別阿房列車』もじって書いた、その列車の旅の欠かせない居なければその紀行文の興味が半減する、いやそれ以上に重要な同行者の作品である。作家の家族以外では最も時間的にも距離的にも近いところにいた、「裏の裏」までの事情を知っている筈の秘書というか執事というか国鉄の職員でありながら本当の上司に認められて、暗黙の指示でその傍にいた秘書が書いた作家の実像を書いたものだ。昔読んだ文庫本『第一阿房列車』を脇に置きながら読んでみた。冒頭の『特別阿房列車』の東京から大阪へのバージョン“特別阿房列車始発・特急・はと”の発車、である。
 作家が多くの小説以外の作品の中で書いている登場人物はなんといっても「Hマラヤ」氏が頻度も最も多く、読者はその人物像を勝手に作家が描いた言葉で想像するが、書かれた本人、脇役が主人となる著書の中ではその人物像はどのようなモノか、という興味である。作家の家庭には細かく入り込まずに(危険ゾーンかも知れず)あえて“阿房列車同乗者”としての立場をわきまえて、その作家との絶妙なふんわりとした距離感を保つように取りつつ先生のプライドを大事にしながら世話を焼く。酒飲みのお相手をする。目的のない旅の段取りをする。話し相手になって相槌だけは「はあ」ときちっと打つ。 何を言っているかを忖度して今でいう「パシリ」役を適当に果たす。作家にとって近くに居なくては困る連れ、である。国鉄職員であるから都合よく時刻表を手に切符を手配し、宿を探し、下車駅の駅長や国鉄職員仲間を訪ねる、作者には持病の「結滞」があり、酒が好きで、適度な話し相手が居なくては、となると一人旅は不安である。先生はこの連れを「国有鉄道にHマラヤ山系と呼ぶ職員がいて年来の入魂である。年は若いし邪魔にもならぬから、といっては失礼であるが、彼に同行を願おうかと思う」とまず、随分な紹介の仕方である。こういう言い回しが作家先生の表現手法である。
 先生にとっても、それをわきまえている風に控える山系君は重宝であるし、ある生活の一部領域では身内のようであり、部下のようであり、エッセイの中では散々な表現をするも先生からすれば親しさを込めた悪口でも愛称の名付けでもあるのだ。最初の出会いは“実歴・・”の最初に書いている「貴君は汽車の旅行が好きかね」、とまだ関係が薄いときの「貴君」という呼び方で「Hマラヤ・・」はまだ登場しない。「国鉄職員に向かって,汽車旅行を好むやと問われても、そう簡単には応えられない」、と食事の席であり余計なことをいうことは控えていた。さて、いよいよである「貴君、僕は大阪に行って来ようと思う」と先生はいう。「なにか、用事でもできたのですか。大阪にー。」「いや、なんにも用事なンか有りやしない。」なにかいいかけるのに先生は面倒くさそうに、「分からない人だねえ、貴君は。汽車に乗りたいから、大阪へ行くんだよ」と言われたこの場面があの名随筆『特別阿房列車』(1950年執筆)の名場面である。「私の言いたいことがわからないのか」、とここから始まり、である。
 先生、こと「U田百K」(別名・百鬼園、H閒、本名・内田栄造)の文学作品の鑑賞、評論を別にしての作家の人間像を書かせたらたぶん、この人「Hマラヤ」氏が一番知っているに違いない、そして先生にその汽車旅ではある時期から一番信頼をされていたに違いない人物である。作家の家庭、とりわけ家族的な環境の仔細は知っていても身をわきまえてそれは書かない。運輸省に入省して、機関紙編集の担当になり「百K園」に随行し師事し30年、先生が81歳で亡くなる昭和46年までずっと本人が54歳までお付き合いをした。その後「全集」刊行などの編集に携わった。青年期には先生に学費を出してもらい国鉄に籍を置きながら大学の夜間部に在籍していた、というから先生もしかめっ面とちょっとした棘のある言葉とは裏腹に人間味のある作家であったのだ。
 先生の一番に気云った愛称はもちろん使用頻度の高い「Hマラヤ山系」略して「Hマラヤ君」ときに「Hマヤラ」ともなるのだが、ある時にはひどい表記も目にする。やれ「朦朧軒」だのそのバージョンで少しばかり気を使った「孟浪」などという表記もあるが、それはHマラヤ山系以外のも一つの表記で、常に先生の問いかけに捉えどころのない「はあ」という気のない返事をしたりするからであったろう。この意図した対応術はH山氏の心得の一つ処世術、である。深く入り込まない、論議しない、しかし言わんとすることは心得る、ということである。その間合いは先生も理解し、それでいいのだ、と。酒が入るとそうはいかない、先生は機嫌よくあればあるだけビールを飲む。しかしその相手に飲み込まれないように程よく飲む。そういえば先生からお付き合いの「訓示」を垂れられた。「阿房列車」に「長年、貴君とお酒を飲んで,どの位飲めばどうなるかと云う加減はお互いによく知っている。相戒めて、旅先でしくじることのないようにしましょう。・・・」いいですか、と念押しをされ山系は浮かぬ顔で、「はあ」といったきり、黙っている。」という箇所がある。
 いよいよ「A房列車」特急・はと、が大阪に出発する冒頭の文章で、「ヒマラヤ山系」の手にするボストンバックにケチをつける場面である。最初からパンチを一発である。「山系がやってきた。泥坊のような顔をしている。きれのボストンの手の所がしゃしゃくれて、糸がほつれて、千切れそうになったのをさげている」・・・「それは随分きたならしいね」・・・、「髭ぐらい剃ってきたらよさそうなものだ」などといろんなケチ、難癖を初っ端からつける。そして酒飲みの教訓である。
 また、先生は列車のステップ(一等車に乗る)に古くて破けた革靴につぎを当てた靴の底をこすりつけたのだが(人のことには細かなケチをつけるのだが)、「・・・山系は南瓜を踏み潰したような貧弱な恰好の靴を・・・」という。また先生が「何時だろう」というので「山系が洋服の左の袖口をたくし上げた。借り物の腕時計の鎖の環がゆる過ぎるので、手頸がとまらないから、奥の方の、肘の近くに嵌めているのである」と変なところを細かく観察している。まったく、弱点ばかりをよく探し、面白く描写する。阿B列車の中ではバナナ売りが行き来する。先生はそれを眺め、売り子の姿を目で追っている。(気が利かないなあ)という風で「おい、バナナが美味しそうだな」、とは言えないのだ。「彼の意向を聞いたところで、要領を得たためしがないから省略してほっておく」と記している。
 ついに先生、『「いつもバナナを持っているね」私がそういうと「そうですね」と答えて、それでお仕舞である』。全く気が利かない“朦朧軒”、いや“山系”だ、と先生が口をへの字にして臍を曲げている風が目に浮かぶ。そっと目を外に向けると東海道の遠州灘あたり、この辺は岡山から東海道を幾度となく往復しているから見当がつく、と自慢話をしている。「車室でお行儀よくなんにも食べないのは、一つは体裁もあるけど、もっと大事な事は、後でお酒をうまく飲もうという算段である」といいながら我慢できなくなって食堂車に山系といって飲み始める。始まるときりがなく、列車に積んであるビールがなくなるまで飲み続けるのだ。麦酒飲み放題、列車である。ちょうど列車の揺れ具合が酔い具合である。それに素直に付き合う、なんと揶揄われても私の上司、師匠である。
 人気続編の『第二阿房列車』、『第三阿房列車』に描かれている列車での旅の段取りと手配、同行はもちろん、出版社への連絡係、旅行社の代理店、銀行にお金を下ろしに、ビールをはじめとして食料の調達(主に酒類)係、“別宅”への連絡係と口が堅い、個人情報を漏らさぬ大事な秘書、である。
 山系氏の前任には1921年から10年ほど同じような役割の書生で大学生「内山」氏(ペンネーム、というか先生が名付けた「U山呆人」)が卒業してからも家族と同居していたのだが、その彼は作家の機嫌、逆鱗?に触れて突然解任された、という読者にとっては興味のある“隠し事”が作家の遺族の対談集の中に出てくる。その初代秘書方は何も記録を残していないようで先生が本気で怒った出入り禁止事件の事情・背景を知りたい、と思うのだが。
 作家の年表によるとU山氏が1925年に家族と別居した時期は作家が長男を亡くしており、仕事部屋として他所に家を借りて家を出た。そして1929年には花柳界に身を置いている愛人とその妹と同居するようになっていた。確かに4人の幼い子供がいて仕事にならない、と仕事場をほかに求めたのだが、身の回りの世話をする人も欲しくなり「こい」さんという女性と一緒に住むようになった。本宅と妾宅の間を行き来していた書生・U山氏はある時からばったりと「実家の母」(作家の本宅と妻のところへ)のところへこなくなってしまったと娘さんが対談の中で語っている。「誰かに中傷されたんでしょうか」と思って、娘さんが後年、どうして「内山さんが来られないの、と父である作家に問うと厳しい顔で「その話はするな」といったと。その辺の諸事情は詳しかったはずである。内山氏は筆が立つ人で本人もエッセイを書いていた、というからその著作の内容などに絡んだ事柄が師匠である先生の感情を荒立てたのかもしれない、と憶測する。
 本妻の「清子」さん(あの熱烈な恋文を送り届けた友人の妹)は1964年に亡くなり翌年「こい」さんを入籍させている。この書生の記録した本妻と後妻との関係はどうであったかいろんな絡みがあるはずであるがそれは目に触れていない。「実歴・・・」で「U田H閒」の後半生を同伴したヒマラヤ氏の著書で知ることができたが、前半の部分も知りたい、と思うが主人もメッセンジャー「U山呆人」もいなくなった今は何があったのか想像するしかない。「実歴・「冥土」の前後」という著書でも密かに刊行すれば面白かったのに。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://jubakonosumi0804.blog110.fc2.com/tb.php/1114-3fdaf58d