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 2018年03月 

資源ごみをもらう 


村上著書
 親しい友人が海外に移住するという。家族ごとである。我が家の近くの一戸建ての住宅にはそのファミリーが様々なものに囲まれて暮らしていたものを整理し始めていて国内の移転とはわけが違って持ち運ぶわけにはいかないからできるだけ始末せねばならないこととなって悲鳴を上げている。自家用車、家族全員分(6人)の自転車、家財道具、書籍、衣類、暮らしの小物、そしてペットの猫、鶏、鉢植、池の側に住んでいたからカヌー一艇とこちらが見ていただけでもうんざりする。
 思い切り捨てられるものは捨てよう、帰国した場合を考えて家は貸家に(できれば)したい、小さなセルフビルドの小屋を物置にしてその何年か後の帰国時に必要な最小限ものを詰め込んで、後は捨てることにした、という。その中で読書家でもあった主人(こちらが友人なのだが)の雑多な蔵書を紐で結わえて資源ごみに出す、というがその前にこちらが欲しい本があったら抜いてください、残りは資源ごみです、と。
 早速、ナイロン紐で十文字に結わえられた束を点検すると何となく読書の筋が似ている、好きな作家も似ている、重なる、ダブル本が結構あるのだがいちいちその作家の、その著書の感想を述べたところで仕事がはかどらない。その束の山をひとつづつ持ち上げて背表紙を見てはも一つの山を隣に作るなどを繰り返して8冊の書籍を抜き出した。「N井龍男」、「I澤夏樹」、「O川国夫」のいずれもの著書は随筆集である。そして著者名は知っていたが読んではいない「D・キーン」の「H代の過客」の4冊(上・下、続・上・下)だ。そしてM上春樹の一冊である。
 なんで、どうしてこれを資源ごみにするの、ええっ!。と言って束から抜いたのがそのM上の紀行記である「辺境・近境」だ。もちろんその本はこちらの書棚にもある。中でもその中の「ノモンハンの鉄の墓場」という長いエッセイが印象的であった、という記憶があるのだ(あの“ねじまき鳥クロニクル”を書いた後にノモンハンを訪ねている、その執筆後の現地訪問の印象を知るためにも読んだし、どうしてノモンハン戦争(とあえて言っている)を日本人は起こしたのか、と作家が自問している文章が気になっていた。『「僕らは日本という平和な「民主国家」の中で、人間としての基本的な権利を保証されて生きているのだと信じている。でも、そうなのだろうか?表面を一皮むけば、そこにはやはり以前と同じような密閉された国家組織なり理念なりが脈々と息づいているのではあるまいか。僕がノモンハン戦争に関する多くの書物を読みながらずっと感じ続けていたのは、そのような恐怖であったかもしれない・・・子の五十五年前の小さな戦争から、我々はそれほど遠ざかってはいないんじゃないか。僕らの抱えているある種のきつい密閉性はまたいつかその過剰な圧力を、どこかに向けて激しい勢いで噴き出るのではあるまいか、と。)』。と長い引用だがこの文章を当時心にとめていた。そればかりか、この本のデザインが素晴らしい。レコードやCDなどをジャケット買いする、いわゆるジャケ買いを書籍でする人は少ないと思うがこの美しい本を粗大ごみで出す、というのが信じられない!という感じで手元に引き抜いたのだ。
 疲れた雑多な雑誌、文庫本、単行本の中に何げなく挟まっていたこの真っ青な本が、装丁が、デザインがひときわ目立っているし、汚れたり、傷ついたりしておるわけでもない、そして自分の書棚にも一冊あるのに、でも、これは持ち帰るべきだ、と強く思ったのだ。表紙をおおうカバーは正直言ってあまりよくない、作家があのモンゴルの地で捨てられている戦車に乗っかって記念写真的に写っているのは余計である。その写真でできたカバーを一皮むくと何とも鮮明で、シンプルな抜けるような鮮やかな青一色の本が現れる。本の上の切り口・地。背・小口・表表紙・裏表紙全て青一色で表表紙は白抜きの文字で「辺境・近境」とだけであり、ひっくり返して裏表紙は同じ活字体の「M上春樹」のみである。素晴らしい、デザインである。かれの著書の中で本のデザインでは格別に素晴らしい、とこちらは思っているのだ。
 一冊はカバー付きで書棚に挟みその隣にカバーなしの粗大ごみ寸前だったその本を並べている。ちょうど今から20年前に出版された(1998年4月23日出版)本である。
 確かに海外にあれこれ持っていきたい、と考え始めるとかたつかない。古本屋に持っていけば、というともう面倒だという。それで結わえた本が知識の源だった、読書を楽しんだ、その本を見れば様々な思いが湧いてくる、少なくとも自己の意識の形成に少なからず影響をした本もある筈である、それを消耗品のごとくポイっと捨てるという事は思い切らなけれ、勇気をもって、目をつむって全て捨てると覚悟しなければできないことである。
 もう一つ「D・キーン」の「H代の過客」4冊は汚れもついている、折り目も残っている、日焼した表紙であったり、変な殺虫剤(かなあ)の臭いもするのだが、読み始めてもっと早く手に取ればよかったのに、と思いつつ読んだのはサブタイトルが「日記に見る日本人」とありその4冊の中の1冊(上)には外されづに腰巻がついていて「平安初期から幕末まで千年の日記にのぞく日本人の素顔」とある。ページをめくると目次に様々な平安時代の日記から近代の作家の日記を読んでそれを解釈・解説をしている、大変興味のある内容だ。こちらも様々な日記を読むのが趣味で先月に読み終えた「蜻蛉日記」もこの中に含まれていて、粗大ごみの束から引き抜いた。もっと前に読んでおけばよかったかな、と一瞬思ったのだが、やはり自己流で読み終えてその後にこの著書を読むほうが良かったかもしれないな、とも思っている。読んだあとの日記作者の書き綴った心情とプロが読み解いた、日記を綴った女性の心情の理解の仕方の違いに、あっそういう風に文学者は読むのか、という勉強にもなった。例えば「H口一葉」の日記はそうだった。まだまだこの著書に収録されている日記を読んでいないものがある。これで読んで、読みたくなる日記本もある。早速図書館に行って全集を閲覧し、借り出さねば。
 すべての資源ごみ、古本は結わえて出した、といっていたが奥さんがそっと束から抜いた一冊がドアの裏にあった(隠しておいた)。それは奥さんが今は亡き父親からいただいた本で捨てられない本らしく「K田孫一」の本だった。海外に持っていく唯一の本であるらしい。
 わが本棚を見て増え続ける本を、一体どうする、いざという時・・・は遠そうで近いかもしれない。そろそろ考えなければならない。蔵書の終活である。
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