FC2ブログ

月別アーカイブ

 2017年06月 

体制内抵抗勢力なのか 

 
マルチンルター
書店で何気なく手にした新書、である。何等かの目的意識をもって探した書籍でもないのだが、潜在意識の中にその本のタイトルに引っかかる何かがあったのだろうが、読み終わってもしかしたならそれがそうだったのかも、と今にして思えば、と。
高校時代の世界史か、その名「Mルティン・Lター」(M/L略す)を知ってその人間が500年前に時の宗教権力、権威(権威は教皇、ではなくて聖書にある、と)に疑問をもって起こした「宗教革命」を、歴史知識として記憶にあるのはそれだけである。それにつながって「Pロテスタンティズム」という単語が引き出されるのだがその関係をもう少し知りたい、という事であった。今のアメリカの保守主義、イギリスのヨーロッパでの連合体からの離脱、あるいはその離脱とまでいかなくても各加盟国内の保守的な動きに、一体その国民を束ねる基軸となっている筈のキリスト教がどのように機能しているのか、という事を知ることになるかも、というきっかけだったかもしれない。
 500年前のキリスト教のカトリックは神聖ローマ帝国の国教であり、その教主は絶大な力を持ち、その信者が言い方は悪いが権力基盤でありなおかつ途轍もない金づる、資金源となっていた。そのからくりは当時は一部のインテリ、宗教者以外は文字も読めない、言葉はラテン語でミサが行われ説教が行われて、知識人といえばキリスト教会での言葉だけの託宣にありがたさを感じ、お金を払えば教会が「贖宥状」という免罪符を渡す、それによってこの世に生まれてから冒しているとされる罪悪をそれが掬い取ってくれて立派な教会の天井に描かれたあの天国へ行ける、パスポート発行所となっていた。その教会が集金マシンとなっていることに違和感を持ったのが、M/Rであった。腐敗した金権的なこのカトリックに異議を唱え、当時発明された印刷術を使って批判を大量に制作し、聖書はドイツ語にも自ら翻訳して今のローマ教会への疑問を大衆信者に届けた。
 それに対し現在の体制からは、その居心地の良い国の保護にある、国家・政治と密接につながっているキリスト教の体制を崩そうとする抵抗勢力だ!、と抵抗する一派、‟プロテスタント”だと揶揄されあだ名を付けられたのだが、M/Rは今の権力主義、金銭主義に堕しているカトリックの体制内改革をするつもりでいたのだ。だからカトリックの内の「福音主義」派と自称していた。しかし、結局は体制に盾突く不穏な一派という事で「破門」という処分をカトリックから受けた。「プロテスタント」、という呼び方は後世になるとカトリックの権威主義、制度からは自立する、自由を信ずる者たちの一派として自ら「プロテスタント」と呼ぶようにはなったのだから蔑称ではない。国家に属する、その地域に生まれる、その領主の支配下にあるという事で生まれながらにそのカトリックの宗派に自動的に属する今までの信教の在り方から、自由に宗派の選択ができるようになるとカトリックの教会の経営基盤が不安定になる、教皇の権威の象徴であった立派な教会が危うくなる。
 この宗教改革のムーブメントもヨーロッパ大陸からイングランドに移ると国情の違いからか国王が首長となる国営「イングランド国教」教会ができ、カトリックの改革一派ピューリタン派がうまれた。国家の管理のもとでは信教の自由がない、と離脱する派が生まれたのだ。
 このカトリックの体制内政治をつかさどる王や政治とむずびついているカトリック体制内プロテスタンティズム一派は「古プロテスタンティズム」と呼ばれ、それとは区別される近代の自由思想、人権、抵抗権、信仰の教会支配からの自立し、良心の自由、デモクラシーの形成に寄与したと言われる、「新プロテスタンティズム」が生まれてきた、と新・旧のその主義が並立していることをこの新書は教えてくれた。従来の俄か知識ではこの‟プロテスタンティズム”という概念が我々が尊重する「リベラリズム」という立ち位置を教えていたのだが、「古」はどうやら保守的な、旧来の体制の一部を体制内で改革するというに過ぎず、根本的な権力機構を前提とした体制を維持する、例えば宗教の決定権が個人にはない、というのであって「新」は国家に紐つかない、自由な信教であり、近代の自由、とか人権とかいう思想を持つプロテスタンティズムがある、という知識を得たことである。
 M/Lの思想は結果的に保守プロテスタンティズムであり、ビスマルクのドイツ語圏の(プロイセンの)統一、ヒットラーの民族選別視点に都合よくその思想が使われてしまう。M/L派はその状況を知りながら、承知していながら「違う」「否」と云わず、消極的賛成の姿勢をとり、政治に都合よく「カトリシズムから自由を勝ち取ったM/L以来のドイツ」というナショナリズム高揚の「ナショナル・アイデンティティー」統一キャンペーンに使われたのだ。
 そして第一次世界大戦に負けたドイツは拠っていたM/Lの考え方を排除して共和制に移行し、カトリック系と社会主義が連合しワイマール体制となった。外され干されていたM/L派は共和制が終焉し、ヒットラーが率いる国家社会主義が勢いを増してくる状況を歓迎した、と積極的にではないにせよ否定はしなかった。古いプロテスタンリズムはそのような国家主義、全体主義的な思想にくっつきやすい体質を持っていた、となるとまさに「リベラル」という場所からは宗教改革を成し遂げた、と言われる教科書的な知識とはかけ離れたことにきずくのだ。なにせM/Lの古い古い著書での主張「ユダヤ人とその偽りについて」をヒットラーはユダヤ人の迫害や反ユダヤ主義のために都合よく抜粋、利用した、と新書は教えてくれる。ヒットラーの「ドイツ人の誇り」を印象付け「もう一度輝かしいドイツを再建する」というスローガンなどはM/L派にとっては親和性のある言葉だった。このようなキーワードは全体主義、民族主義、を標榜し〇〇ファーストだとか言い募って国民を煽る政治によくみられる。多くの学者などはヒットラーとM/Lとは類似している、と。
 最近はヨーロッパはEU連合となっているのだがそのせいかどうかはわからないがドイツではナショナリズムが生まれている、という。多民族化、移民、などの問題が生まれて来て各国が自分たちのアイデンティティーを確認する、尊重する、「他」を排除するような風潮が現れてきているように思うのだ。
 新しいプロテスタンティズム、ピュウリタリズムなどを精神の基盤とする世界で最も自由な、リベラルな国家だと思っていた国が多様性を排除する、協調しない、という風なナショナリズム的な政策を打ち出す先進国の自由主義国家が増えているし、その勢力がそれぞれの国内にもふえている、自由主義が行き着くところがそのような偏狭な思想を生み出している、かもしれない。
 新プロテスタンリズムが今度は新・新抵抗主義『わが民族、わが国家」ファースト』、となるのだろうか。EUというヨーロッパの連合体や貿易、環境など自由主義的な経済・政治の結びつきが根本のところでは民族、宗教が違うのだ、という要因が不安定にさせている、と思える。もしかしたら神を崇める宗教って考え方はもはや時の政権が都合よく使う、新興国か発展途上にある国の方便で今や「バーチャルな情報世界にいる,金融(所得)至上主義」が楽天(あのらくてん、ではない)への近道という絶対的な価値観がニュー宗教なのかもしれない。後の世にはそう称されるかも。教主、いや主宰者は誰という事になるのだろうか。AIロボットかな。
スポンサーサイト