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 2016年09月 

写る自分。 

鏡

 月に一度のヘアー・カット・サロン(ようは、床屋)にいくとブースに座った自分を鏡でみて、これって自分?というような不機嫌な顔をみてそこから目をそむける。いつものようにしてください、と一言云って瞑目する。決して睡眠時間にはしなくて頭をいじる加減や隣に座った達者な(饒舌というか、うるさいというか)会話の様子に聞き耳を立てる。たまにその聞き耳もピクンとしたり、薄眼を開いてその人物を鏡で確認して、なあんだ、とか思ったりしてもっと他に気の利いた会話のネタはないのかねえ、と。           そろそろカットし終えたなというタイミングで屏風の小型の折り畳み鏡で後ろを写し、前の鏡で確認させられる。否が応でも頭頂部の薄いところを強調するかのように、写す。まあいい、という具合に頷いて、顔を剃るために寝転んで、薄くなったし、耳の脇は白くなったし、皺も増えたな、弛みがちょっとな、という風に毎月、いやな思いをする。自宅で朝だけは自分で顔は確認しているのだが 顔・頭部を360°を見ることができるのは床屋だけである。嫌であるがそうさせられて断るのは“禿を気にしているのね”、という風に思われるのも嫌だ。
 鏡というのは洗面場所にもトイレにも自室にも机の抽斗にも手鏡があるのだが見るのは習慣的なもので単に顔を歪めたり、髭を剃るときに口の周りをへの字にしたりするぐらいで嫌な気分にはならない見慣れた顔である。
 鏡の効果って単純な写し道具であるのだが、西洋名画、のなかで例えば「ベラスケス」の作品などの画中の向こうに四角のフレームの中にこちらに立つ人物が写されたりしていて鏡の中の人物がある意味深な寓意をもって入り込んでいたりする、そのような大事な小道具として多くの画家が使っている。
 先日、北欧家具のアンティーク店(この店はヴィンテージ、という)に何を買うかの目的もなく入って、アンティークの食器、ティー・ポット、カップ&ソーサー、やフラワー・ベースなどを眺めていて壁に突然、見たような顔!、なんだ俺じゃないか、という鏡が何面か飾ってあった。その鏡はよくある姿見や洗面所の四角の明るい、デカい鏡ではなくて台形であったり上辺が長くて下辺は短い、あるいはアールを用いた抽象的な形であったりと、おっ良い形じゃないか、素晴らしいなあ、と北欧風の茶色の木製のフレームの、その中に入る自分を写しながら、これって正しい自分を写している(たぶんに照明の加減なのだが)と気分がデフォルメされていい。これは良い効果を生んでいる鏡だ、と欲しくなる。
 何点か鏡を見せていただく。北欧風で細工も素晴らしい、しかし、いい、と気に入った抽象的な鏡の値段に顔が歪んでいる。そこで違ったものに目を移すとそれはこちらの腹つもりの価格である。店主はこれは一度手入れをし(フレームのオイル磨きと四隅にあるネジの締め直し、鏡の裏の清掃、などメンテナンス)してお渡しします、一週間時間をください、とその一週間後の今日、受け取りに行ってきた。5・60年前のモノで鏡の裏に塗ってある銀色の塗料が薄れて微かに雲のような影がうっすらと鏡面に浮きますが・・・、という、もそれは直しようがない、ということでそのままでいいですよ、そういうネガティブな事情をハッキリいってくれた方が信用できる、とつぶやいて受け取る。
 早速、玄関を入って廊下の突き当りにこれをくっつけ下げてみた。玄関から入った人は向こうの鏡でこちらの後ろ姿を見る感じで見る。また背景の中で写る自分はこの場所に立ち正面からこちらの身だしなみの点検をし、表情の具合をただし、心情を落ち着けるための、今の自分の本当を映し出す。距離感がある鏡の中のこういった風景は初めての経験である。
 しかし、この鏡はインテリアの一部として買ってきたものであるが、ほかのインテリア道具とは全く違った、心象をも写す怖い道具である。

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