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 2014年11月 

“鼻ざわり”の悪いこと。 

銀杏の木


丁度、紅葉の美しい季節だ。近くのS公園にいってもみじのさまざまな赤さの紅葉を見てきた。その赤い色は桃色を重ねたような微妙な色、橙色を混ぜたような色、血のような濃い色を、あの好きな画家Mが良く使ったガランスという濃い臙脂に近い赤など紅の多色のグラディエーションを帯びた多種なもみじ・楓等は植わっている場所によっては眩しい朝日を受けて葉の裏から見ると一層それらの色が引き立って美しい。
また昨日はある大学のキャンパスを歩くと真青の空の陽の光を受けて輝く黄金色の銀杏の大きな樹が並んでいて壮観であったのだが、ふと先日の新聞に小さな歳時記のような形で書かれた記事を思い出した。あの銀杏の黄金色の落ち葉を竹ぼうきで掃く庭の管理をする人たちが葉を掃き集めると、一風があればまたひらひらと先が扇のように広がる小さな葉が自由気ままに落ちてくる。そこのアスファルトには前の風で落ちたであろう銀杏(ぎんなん)の実がまとめられているし、土の表面にはそのままの銀杏が果肉が色を変えて落ちている。踏みつぶされて割れたたものも多い。
銀杏は東京都のシンボル樹だし、多くの大学に植えられているし、公園でも高く聳える樹になっている。街路樹として人気のある(あった)樹で静かな街並みに彩りを添えているし、多くの神社では御神木として大事にされているのは良く見る景色で、その銀杏の黄葉は楽しめる秋の風物詩であるがその雌樹は嫌われ者になっているという記事であった。
何でも、その銀杏の落ちた実の臭いがあの排せつ物の臭いに近いためか、住人からは“自治体で何とかせい!”という陳情が多いというのだ。その記事は大阪のM同筋に植わっている街路樹から落ちた実でのことらしい。確かにこちらもあのキャンパスの歩道を歩いていると落ちた大量の銀杏を見ているし、ふんづけて(「糞つけて」、ではない)パキッというそれが割れる音を聞き、靴の底に着いた果肉部分の異臭の素を歩道のブロックでコソゲ落として“いやだあ、あの人の後に行くと「うん○」の匂いがする”と勘違いされないようにするために。
学生さんはいつものことであるから、わざわざ踏まないし、間違って踏んだ臭いも馴れていて気にしないのだが、犬などの落し物の臭いとは違って、確実に人様の物、糞に近い臭い、異臭ではある。だからと言って、街の住民がその銀杏の臭いが“、“においざわり”、“鼻ざわり”だから“役所がはよう始末せんかいな”、と苦情を住民の権利(快適な市民生活を確保する)として言い立てる感覚には違和感を感じたのだ。ならばその近隣の黄葉を楽しむ人たちが掃いたり、落ち葉を拾い、銀杏拾いを愉しむ、という感興を持ったほうが良いと思うのだが・・・。ある自治体はその銀杏を集めて果肉を洗い落として配布したりしているところもあるというのだが、住民はそのような臭う事、臭い作業はしたくない、でもきれいに洗ったものはいただきたいというのだろうか。
和風ピスタチオ的な食べ方がある。嫌われる果肉をきれいに落として炮烙で焼いて殻を歯で軽く噛んで割り、緑色の実に一寸塩ふりして食べる、妻楊枝に二三を刺して天麩羅にしてみる、あるいは茶碗蒸しに欠かせない種としてあの食感を愉しむ、という風にして家庭でも楽しむことができるのだ。あの果肉のない銀杏が実に付けばそれほど邪険にはしないのだがなあ、と勝手なことを云いかねない人たちだ。
さいきん、このようなかっては気にもしなかった自然のもたらす普通こと、ありふれた事が苦情として役所に持ち込まれたり、裁判沙汰になっているということをニュースで聞いたりして、どうしてしまったのだろう、という思いを持った。
それは住まいの近くにある保育園や幼稚園の園児の元気のよい声がうるさい!という苦情が多くなっているというのだ。鼻ざわり(嫌臭)だけではなく耳障り(騒音)として幼児たちの元気な声は聞くに堪えない、というのだろうか。家庭内でも幼児などの泣きわめく声、小児の声や歌声が、ある人にとっては喧しい、静かにしろ、という耐えられぬ、訴えるようなことなのだろうか、と何かが変わってしまっているとつくづく思っている。他人の子どもの声がうるさいだけではなくて自ら産んだ幼児たちを虐待し、飢餓状態に起き、閉じ込めて放置したり、橋から落してしまって死なせたりという悲惨な事件が毎日のように報道されているのも何か子供の親や周辺の人たちのパソコンやスマスマホなどの架空世界に没入して狭い四角の社会が生まれてからのような変化ではないかと思ってきている。そのような活発な子供たちの育っていく過程に耳を塞ぐ、狭い視界を保つために邪魔とするモノには行政の力でもって遮断させるというような、個人の権利が変質し歪んできているのだ。
鼻を、塞ぐ。耳を、塞ぐ。口(発言)を、塞ぐ。眼を、塞ぐ。自分にとって嫌な物が増え続ける、それを遮断する。日常的な個人の常識的な感覚で感ずるそれを自らが社会的規範に沿って判断して許容し、制御することができなくなり、自分で収めるはずのことをなんでも行政や権力に依存するようになる。
目障りだ、といっては社会的な共用施設を排除する、嫌悪する。ごみ焼却場、火葬場、墓地、あるいは最近でいえば放射能汚染物質処理場、仮置き場、あるいは更生施設、など嫌がらる人もいる施設と近い感覚で少子時代の次世代を育てる施設を同様に嫌悪する感覚は一体・・・。周辺の人たちから隔離するように高い塀を作って遮音した幼稚園もあるという。共同体という感覚が欠落しかけている。そして個人主義、というかまとまらない「個」主義、てんでバラバラな「個」があるだけのような空疎な空間になっている。
まだ、人間の具体的な体の五感覚で感じられる嫌な物事には個的に敏感に、過剰に反応するのだが、たとえば「放射能」というのは体のどこを塞げばよいのかわからない、嫌・感覚には違ったセンサーを持つ必要があるのだがそっちは身近な銀杏の匂いや、子供の遊ぶ声と違って・・・・忘れやすく、鈍感になりがちである。無味・無臭・無声・無色の形も不明なモノこそ知らぬうちにただよいはじめそれに浸されているやもしらぬ、故に騒ぎもしない嫌いもしないそのほうは忌避されてしかるべきなのだが・・・・。

*キャンパスの銀杏

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