裏か表か 


田村隆一

 自宅に居るのは暑くてもう堪らない。開館早々にクーラーがきっちりと効いている最寄りの図書館に避暑に出掛けるとロビーでリサイクル本の配布をやっていて、それは昨日からの行事らしいのだが段ボール箱に残り少ない本が人を待っている、でも目ぼしい本は残っていそうもない。その残り本の中で若いころ読んだ詩人の書籍が取り残されていた。その詩人の書いたエッセイ集2冊をピックアップして頂いてくる。現代詩人の「T村隆一」の「Bくの中の都市」というエッセイと「Sばらしい新世界」というタイトルもどことなく洗練されたものじゃないか、と頁をめくると一冊はどうやら日付けの入った日記のような(何月何日 晴れ)というような素人の書く日記のありきたりの一行で始まっている短文集である。「日記」、それも文学者の日記、といえば読みたくなる、気に入っていた詩人の(「新年の手紙」「奴隷の歓び」「スコットランドの水車」等々1990年代初頭の詩集は今も書棚にある)、それも晩年の、それもこちらの年齢と同じ詩人が記録した日記とあらば、読もう、と抱えて持ち帰った。
 今から10年前の1998年に75歳で亡くなっており、この「退屈夢想庵」と洒落た名前で文芸誌に連載されていた日記風エッセイというかエッセイ風日記は晩年の70歳から73歳までの期間の3年間の飛び飛び日記である。この詩人・文学者の日常はどのような考え方であったろうか、暮らしであったろうか、文学者仲間との交友は、どのような読書をしているのかな、と興味があった。
 この詩人は堪能な英語を武器に英訳を職業の一つとしていたから(アガサクリスティーの翻訳など)外国文学、外国詩などは詳しいのは当然である。英国の文化にも触れていて洒落た感覚の言葉を使ったり装いもダンディーで、モダン(というと古い言い方だが、当時でいえばまさに先端的な言語感覚と洒落た英国スタイルに触れた暮らしぶりや近代的なセンスの考え方であった)であったから、こちらもその詩集では当時のはやりの理解力を必要とする抽象的な表現よりも身近にある近代的な雰囲気をもった詩文を憧れをもって読んだものだ。
 この日記を読んでいると個人的には何となく馴染める.。詩人というと高踏的で言葉の魔術師的近寄りがたさを持つものだが、そうではなくていい感じの洒脱な「おじさん詩人」という位置づけであったがエッセイなどを読むとその通りである。かっては大塚の賑わった粋な花街で生まれ当時の色気を知り(実家が料理屋さんであった)、海軍予備役にはいり、詩誌「荒地」の中心的存在であり、当時も今もだが文化的な鎌倉に住む。結構さらりとした新しい時代感覚をもった鎌倉通人であったようだ。そして女性にももてていたらしく日記には出てはこないが生涯で5人の女性と結婚・離婚を繰り返していたからモテオだったに違いない。そちらの話題も豊富なはずだが、高齢になってからはこの手の色っぽい話は日記の中では遠慮気味だ、ちょっと興味が薄れる。(この詩人の好きな作家と作品は森鷗外の伝記小説「澁江抽斎」であるがこの江戸期の医家である主人公も4人の妻を取り換えていた、という。余計な逸話だが)
 この詩人の日記は連載されたのは文学誌「S潮45」というのだから読者は毎日の天気や何を食べたか、近所や知人との行き来や体の具合ばかりでは面白おかしくもない。当然ながら詩人、文学者としての何か特異な感想・記述を欲しがる、単に市井の一人としての日記では期待外れと読者はがっかりする、という事で裏の日記(日常のあれこれを感情の起伏などを記載し、読まれることを意識しない記述)の公表は止して、読者にサービスした一句、一行を付け加えたりして業界のあれこれを紹介したりして「表の日記」の機能を果たすのだ。
 そのようにこの日記を個人的に関心をもって読むところはこの詩人が日記中で記述している、ほかの文学者の文章の引用である。この詩人の師匠格に当たる「N脇順三郎」であったり、W・Hオーデンであったり、文学者ではもちろん「N井K風」、「K子光晴」「U田H閒H」であったりするのだがこの文学者を好意的に読んでいる、引用しているというのはこちらもそれらの文学者のファンであるから嬉しくなる。
 今回の持ち帰ったリサイクル本のもう一冊に日記についてこの詩人が次のように書いている。「・・・はじめ日記をつけようとするとき、いろんな感想を書こうとするでしょう。哲学的あるいは政治的、文学的感想を。最初は一所懸命書くだろうけれども、とても一年間やったらまいちゃいますよ。むしろ自己嫌悪に駆られるほうが多い。・・・・自己嫌悪を避けるためには感想を書かないこと、それが日記を永続させるコツです。・・・事実だけなら自己嫌悪に駆られないし、あとで貴重な役割を果たすこともあるわけです。」やはり表の日記を書くことはしんどい、肩に力の入った文章をかいて発表すると後々大変だ、と言っているのだろう。
 で、読者の分かりやすい、興味のあることだろうと思う事実に近いことを日記風に書いている。日記の読者は既読かどうかは分からないが詩人が日記の中に引用しているところを(読者に向けて)孫引きすると「モンテーニュ」の「エセー」の中の一文を書くと「老衰の果てに、力つきて死ぬことを期待し、これを寿命の終極だと思い定めるのは、何と虫のよい夢であろう。・・・われわれは老衰による死だけを自然の死と呼んでいる。・・・むしろ…誰にもある(事故死や、病死)ことを自然と呼ぶべきであろう。老衰で死ぬことは珍しい、変わった、異常な死であり、それだけ他の死よりも不自然な死である。」この文章は知り合いの医者の死にさいして以上の文章を朗読している。本人も体調が良くない状態で点滴を受けているときの日記である。
 また幼いころ12歳の記憶を記載(平成6年1月7日)するにあたって「U田H閒」の「春雪記」を引用している。商業学校の三学期、二月二十六日は粉雪だった。といわゆる2・26事件の朝のことである。「2月26日の朝から降り積もった雪が、幾日たっても中々解けなかった。・・・さっき大変な物音がして、膝の下まで地響きが伝わったから、何事かと思ったら、隣の屋根の雪塊が、私の家のお勝手の外にある雑巾バケツなどを乗っける棚の上に落ちて・・・そうしてくだけた雪の上から、目のちかちかする様な日が照り付けているので、今に跡かたもなく消えてしいまう事と思う。」さすが百閒先生のとぼけた「2・26」の日記である。こういうのがこちらは好きだし、詩人も唸っただろうから昔のことを引用したのだろう(多分に、意識的に)。前年の12月5日から「U田H閒」の「百鬼園 戦後日記」を読み始めている。T村先生も小遣い稼ぎに“雑文”を結構書いて出版している(日記連載もその類か)。編集者との原稿料もシビアに交渉をしているのだがこの辺りは「百鬼園 戦後日記」の中に「・・・日記の抄出をしようと考えている。(原稿料)一枚一合の割ということに談判成立せり。」とあるから先輩の交渉を参考にしているかもしれない。なにせウイスキーなどを求めて夜な夜な鎌倉の行きつけの店に出向いているから、雑文でもしっかりとこなさなければ、と勇気づけられている。11月にサラリーマン向けの雑誌のインタビューがあって「お代は?」と質問すると「タダです。ウイスキー一本ぐらい・・」と言われ、詩人は「冗談じゃありませんよ」と電話を切った。折り返し「お金は払います」と。
 台風シーズンになると師匠の「N脇J三郎」の「秋」を思い出す、と9月4日の日記に記述する。「タイフーンの吹いている朝 近所の店へ行って あの黄色い外国製の鉛筆を買った 扇のような軽い鉛筆だ あの柔らかい木 きくずを燃やすと バラモンのにおいがする 門をとじて思うのだ 明朝はにう秋だ 」台風一過の匂いは何とも外国的な匂いだ。
 この二日後の日記には日本には東京オリンピック以降、お化けの出る空間がなくなった、汲み取りトイレがなくなり井戸がなくなりと街が明るくなり近代化し、都市の妖しい場所、お化けの住む場所を失くしたと嘆いている。お化けを減少させたのは第二次世界大戦のホロコースト、ジェノサイド、広島長崎への原子爆弾投下、であるという。ここで詩人は「K子M晴「K子M晴」を登場させる。「泥の本」を引用して「もっと大きな失望がある。それは、誰もがひそかにたのしみにして待っていた地獄のみせものが、なくなったことだ。地獄が廃止になったわけは、人の所業に償いがいらなくなったからで、そんな仕儀にいたったのも、どの罪も、人間や、人間の作った神仏では裁きがつかぬほど、はてしもしらずこみいって、その底がふかく、大きくなるばかりからだ。」と詩人は自己の思想や思いを自分の言葉で語る、評論家は止して「K子光晴」に言わしている。そして「K子光晴」が昭和12年・日中戦争が起きた年に出した詩集「鮫」の自序で「・・・がつがつ書く人間になるのは御めんです。よほど腹がたつことか軽蔑してやりたいことか、茶化してやりたいことがあったときの他は今後も詩は作らないつもりです。」と詩人の詩の力(権力に向かう)は何かと問い、詩作の根本を表明している。こういう一言を拾い上げて引用するのがこの日記をよむ一つの面白さである。
 時代的には1995年は阪神の大地震が1月にあって、詩人のその日の日記には、やっぱりというか関東大震災での「断腸亭日乗」が当然のように引用される。「9月朔。日将に午ならむとする時天地鳴動す。・・・身体の動揺さながら船上に立つが如し~」と荷風の名調子での記述が長く引用されている。またこの年の三月には「サリン事件」が起きている。サリン事件をおこした人間たちは偏差値教育が生んだ、戦後教育の成果だ、と・・・教育にこの事件の原因を求めている。この事件からは既に23年がたち先日は 13人の死刑囚のうち幹部の7人が同時処刑されたという報道があった。これについて詩人が存命ならばなんと日記に書くだろうか。“偏差値教育の・・・、知的レベルの高い・・・死刑囚たちの処刑・・・を”。
 そして「お化け」のいなくなったのは東京オリンピック(1964年の)以降だと言っていたが、今、熱を帯びている今度の東京オリンピック(2020年開催予定)以降はどういう風な国、都市、街になるのだろうか、都心部に林立する異様に大きく高い鉄製キリンのようなクレーンによるタワービル建築ラッシュは地中を掘り返し、空中を占拠するトウキョウは何を失い、何を生むのだろうか、と不図、恐怖を覚えるし、異常な天候(地震、豪雨、洪水、猛暑など自然災害)、マスタープランのない企業中心の都市改造、国民感覚での政情不安(官官と政政の緩みと歪み)、唯我独尊的リーダーによる世界の攪拌実態、は妙な具合になって来始めている。
 詩人が死してちょうど20年、である。詩人の好きだった情緒ある街、露地、小路はとうに消えて、散歩する場所、ウイスキーを飲む気に入りの場所は探しても見当たらなぞ、と、T村お化けがグラス片手に出てくるかもしれない。
 この日記は“1996年1月7日(日)(晴)”が最後である。この日はW・Hオーデンの詩「1991年9月1日」が引用され書かれている。『夜のもとで、防禦もなく ぼくらの世界は昏睡して横たわっている。 だが、光のアイロニックな点は 至るところに散在して、 「正しきものら」がそのメッセージをかわすところを 照らしだすのだ。 彼らとおなじくエロスと灰から成っているぼく、 おなじ否定と絶望に 悩まされているこのぼくにできることなら、見せてあげたいものだ、 ある肯定の炎を。』。この詩を引用したT村R一の詩「新年の手紙」の最後に『・・・もしかしたら「ある肯定の炎」が僕の光点に見えるかもしれない では』と一行があってこの日記「すばらしい新世界」は閉じられている。

 
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アイ・オー・ティー、と読むらしい。 


車検証

 ここ二週間ぐらいか、続く猛暑を伝えるニュースで日本全国日中の気温が35度は優に超えて局地的には40度をこえる都市もあって観測史上最高の暑さとか、明治!以来の記録的な暑さだとか報道される。それによって多くの人が熱中症により病院に運ばれ、高齢者は自宅で亡くなっていたということがニュースになる。確かに自室では扇風機で風を体に当てても熱風をかき混ぜているだけのような感覚で堪らない暑さに耐えられづ、冷たい水分を摂取し、体の中からクールダウンとするも何とかならないか、と悶えているとき、そうだ!車の中を25度くらいに設定してドライブでもするのが良いと、近場のSCに、図書館にと段取りする。
 暖房車のような空気の充満した車の熱いドアーを開けてエンジンを掛け空気の入れ替えをすべく、ルームミラーの位置を正そうと手を掛けると、まずいぞ!!!車検が切れているではないか。この状態で公道を走るとなると車検切れ、という事は自賠責も切れていて道交法違反になってしまう、と暖房車が冷え切れない中で冷や汗をかく。近くのディーラーに電話をして、手続き・段取りをしてもらう。
 車検切れから既に3か月近く切れていて、それで公道を平気で走っていた、としたなら、そこでパトロールカーに停車を命じられていたなら、もっと極端に言えば車両事故を起こしていたとしたら、どのような沙汰があったのか、とヒヤッとする。
 二年に一度の法定車検であるがよほど気にしていないと普段は気にしていなくて、忘れている、何か予定表に記載しておかないとこういう事態が起こりうる。ルームミラーに触らなければ平気で走り続けて、なんかの折に今度の車検は何時だったか、と気になるときには既に遅い状態であることが起きやすい。自分の不注意を納得しながら、もう少しうまい具合の車検期限を感知する方法があってもいいのではないだろうか。ディーラーが事前に車検の予約を取りに連絡してくるとか(そのようなサービスをしているディーラーもあるかもしれない)、今の時代人気のドライブレコーダーとかカーナビだとかいう、いわゆる車載されているデジタル機器とインターネットと繋がることができる、「Iоt」(インターネット・オフ・シングスの略)システムに接続してその車検の期限を事前に通知する音声通知サービス機能が付加されることができないだろうか、と思うのだ。
 今の身の回りの様々な電子機器類(丸い掃除機までが、挨拶をしてくれる、炊飯器は炊き上がり時間を教えてくれる、風呂は、沸きました、と促す等々)が親切に言葉で通知する時代である。こちらの車は2011年登録のかなり古い車であるからそういった日進月歩のシステムは搭載されづ、、今の最新の車種にはそのような気配りが完璧になっていて様々な案内が音声でささやかれるようになっているかもしれないが・・・・。冷蔵庫の扉を開けると「あと一か月後に車検更新ですよ」と言い出すかもしれないし、「スマホ」がそのようなメッセージを表示してくれるようになるかも(なっているかも)しれない。
 フロントガラスの真ん中に小さな車検証のシールが張られ期限がそこに記されている。あることは知っているから意識して注視することは、それも二か年近くたちそうだ、という意識は常時持っているわけではないのだ。不注意といえば車の所有者の不注意を責められるのはやむを得ないのだが、車についている電子機器は「バックします」といい、カーナビは「目的地周辺です」とか「あと300メートル先を左折です」とか大変親切で便利であるのだから、免許更新時期や車検期限のアナウンスは難易度の高いサービスとは言えないだろうと思う。文字表示、音声案内いずれでもいい。
 車検期間中(整備と申請中)は車がなく、25度を保つ冷却車中での快適さとは縁がなく、熱中症になりそうな昼下がりにディーラーまで出向いた。車検費用の算段も予定されていなかったから当月の財政は赤字、大幅赤字で火の車状態である。とっ捕まっていたらそれ以上の違反金になったはず。暑い、夏だなあ、今年は例外のない暑さだ、二年後もこの暑さにならないように車の何処かにもっと大きなマークを付けて置かなくてはなあ、何のマークか忘れるようだと免許は返却時期になる。“免許証の更新はご遠慮ください”、と地元警察からの余計な、いや親切な音声サービスがされるかも。

夏の早起き 





 猛暑が続いている。少年時代にも暑い日はあった。そんな日でも朝早く、山の向こうにまだ上り切らない今日の太陽がある、多分4時ごろだったか、涼しさがあり、露を葉先に置いた雑草の道をかき分けて橡などのがこんもりとした小さな村社を目指してランニング姿で行ったことを思い出す。
 そこには昆虫が来ていることを知っていて、洞のような窪みがある、そして酸っぱい樹液の匂いのある橡の幹を揺さぶると、突然の揺れに驚いたかカブトムシやクワガタ、カナブン、たまには背中が緑色の綺麗な細長い虫も仲間になったし、小さな黒い背中の昆虫などが足元に落ちてくる、こともあってそれを楽しみに早起きをして多分缶からに入れて持ち帰る。それがあって、やっと朝の家族の食事になった、と思い出す。虫かごに(当時は竹籠だった)ガサゴソ脚を動かせて、キュウリの切れっぱしに食らいついている昆虫を眺めたものだ、テカテカとした艶のある虫の背中、結構脚の毛なのか爪なのか、子供の手に食らいつくと外れにくく痛さもある、ちょっとした野性味もある、昆虫だった。 
 今に時代はカブトムシや、クワガタはショッピングセンターやホームセンター、通販などで木屑と一緒にプラスチックの籠に入れられて売られている、子供にとっては昆虫採集で手に入れるものではなくて買ってもらえる、買いに行くと手に入る昆虫なのだ。あのような橡などの樹液が出る雑木林などどこを探してもない。蝉がかじり付いて鳴く庭木などが精々だと思っていた。
 自宅の隣に今年から小さな土地を借りて菜園をからかっている。雑然とした竹林が一辺にあるが昆虫が寄ってくるような樹木はない。そこにスイカの苗を三本、ゴールデンウイークに植えて育ててきてやっと受粉も終わって実が大きくなり始めて、もう少しか、と思っていた時期に成長した実を上からカラスが突き、四周をネットで囲ったその裾から狸が入り込み既に9球のスイカをダメにされて地団駄を踏んでいるのだが、動物に見つかっていない食べ頃だ、と当てにしていたスイカを手にすると、なんか変な匂いがする。どこかで嗅いだ匂いだな、すえたような、酸っぱさと甘さの混じった匂いの元は真っ赤に熟したスイカが割れている。もいで畜生!、と放り投げるとその中からスイカの果汁と共に果汁にまみれたカブトムシ6ッ匹(クワガタはいなかった)がこちらの指先に食らいつくようにくっ付いて頑丈な硬い毛、爪で剥がれない。この匂いは少年時代の村社で朝早くに嗅いだあの匂いである。樹液の匂いを思い出した。
 子供に食べさせようと育てているスイカは今回は断念だが、もしかしたらスイカより喜んでくれるかもしれないぞ、と昨年の子供が飼っていたカブトムシ籠に入れたのだが♂2匹、♀4匹では窮屈すぎる。喧嘩するか、あるいはいい感じになるか、は分からないがとりあえずその籠にキュウリの切れはしを入れ木屑をスプレーで湿気を作って納めた。プラスチックの籠をカリカリとあの足の爪、手の爪で搔くも滑ってしまってイライラしている様子。
 小学校から帰ってきた子供は矢張りこの6ッ匹!のカブトムシに興奮している。食べれなかったスイカのことは二の次である。それにしても一つのスイカに6ッ匹のカブトムシとは、いったいどこからここにを目指して飛んできたのだろうか、他の熟生中のスイカもカブトムシの食事場所になっていないか、ならないようにしないと。あの真っ赤な甘い果肉と果汁たっぷりの「小玉すいか」を育ててきたのは、カラス、タヌキ、カブトムシの為ではないぞ。猛暑の中で、自分で育ててきたスイカが、よく冷えた甘いスイカが食べれなかったことを残念がっている、悔やんでいる。小玉スイカはスーパーで一個5,6百円、昆虫は籠付でペアで1,000円はする筈。昆虫を養殖しているわけではない。今頃は年のせいで4時半過ぎには目が覚める。

冷たい飲み物でも。 


キャンベルパーフェクトティー

 猛烈な暑さが毎日続いている。どうかしたのだろうか地表の気候加減が極端で矢張りおかしくなっているのだろうか。西日本で局地的に記録的な豪雨、50年に一度の雨量、とか報道されているが、山の上からの土砂崩れが裾の民家を地域ごと呑み込み、流れ下る濁流は住宅を人ごと流し、車も流し、低地にある住宅地には濁った水溜まりとなって住居は水浸し、水没したような状態になり、農業用水溜池は溢れて決壊し家を押し流したりして多くの死者が、不明者がいる大規模激甚災害が生まれている。豪雨の後の被災地は今度は猛暑である。一方、豪雨のない地域も毎日35度を超えるような気温に堪らなく、熱中症注意報道がなされ、水分を十分に摂取をこまめにしてと天気予報官はいう。
 この暑さの中で外を歩くことは、特に高齢者は極めて危険な行動で自宅にとどまって避暑をし、様々な飲み物でたっぷりと大量の水分を補給しないと干からびてしまいそうなのだ。
 そんな危険な外出の一休みと、飲食店でなにか冷たい飲み物でもという時に多くの人は「アイスコーヒー」でも、とそれを注文するのだが、なんでもいい、冷たい飲み物を、とほかに冷たい適当な飲み物(単に水とかスポーツドリンクとか)が無いがゆえにそれを)、条件反射的に頼む。そのグラスには氷が数個入った冷たさそうな黒褐色な飲み物で、ストローでカランコロンとかき混ぜながら冷たい一口を吸い込む。(美味しいか?)
 しかし、当方は全くこの冷たい飲み物が好物でもなく、飲みたいと渇望する飲み物でもない、正直に言えば嫌いな飲み物である。人生(と大げさだが)でこれまで積極的に注文して飲んだ試しは全くない。記憶にない。これしかない、と言われても喉が渇いた状況でも口にしたことはない、訪問先で冷たい珈琲が出されても、多分口にはしない、礼儀的に一口つけても飲み下すだけである。 
 多分、都会に出てきて初めて口にした「冷たいコーヒー」の経験がそうしているのかもしれないのだが、その当時の初体験の舌の覚えている味覚が拒絶させることになってそれ以降ではないだろうか。こんな旨くもない飲みもの、という都会?体験である。     喫茶店(当時は純喫茶といった)や、コーヒーショップ(コーヒー専門店)に出入りしても、それ以来注文したことはない、最近では自販機でもコンビニでも多くのアイスコーヒー商品が並び、缶だけではなくペットボトルでも、大きな缶ボトル商品も並んでいる。人気のあるアイスコーヒーなのだろう。ホットコーヒーは缶入りが昔からあるのだがアイスコーヒー群の充実は需要の裏付けがあるのだろう。
 これらは猶更のこと購入する気にはならない。缶やペットボトル入りのアイスコーヒーって美味しい筈がないと刷り込まれた拒否的態度である。粉っぽい、金属っぽい、匂いがない、薄めたコーヒーだ、と香り高い温かいコーヒーとの比較による、ネガティブなところばかりが詰まっている加工ドリンク、という勝手な評価が目もくれないことになっているのだが、最近は違うよ、格段に味覚が向上しているよ、と言われても素直にならないのは個人的な頑固な嗜好だからやむをえない。
 その代わり、という冷たい飲み物はアイス・ティーになる。レモンの汁的なカプセル入りの似非フレーバーは使わない、シロップ代わりの似非甘味のカプセルも使わない、出来れば濃いめのアイスティーに氷を二三個いれてくれればよい。水っぽくならないように、最後にストローで吸い取るときまで紅茶の味が残っている濃さを望む、というのがこの時期の「何か冷たい飲み物でも」に所望するドリンクである。自宅では「Cンベル・パーフェクト・ティー」の缶入りで顆粒状になった紅茶を水出しで作って冷蔵庫にスタンバイしてある、これは結構好みの味とフレーバーのティーで価格も手ごろである。
 温かい飲み物は家庭でも、外出先でも、常に「ホット・コーヒー」である。日本茶以上にである。田舎で育ったものだから初めて苦くて,濃いコーヒーを飲んだのは都会での下宿生活で、まづインスタント・コーヒー瓶の粉コーヒー(フリーズドライ製法、とか言うよくわからない粉末)を、多分”マックスエル”というものだった。小さな電気ポットを購入し、友人が下宿に来た時にはその粉を多めにカップに入れてお湯を注いでよくかき混ぜる、砂糖は使ったがミルクは無かった。そのコーヒーは決して美味しいものとは言えず、学校近くや通学電車路線ではコーヒー専門店がぽつぽつでき始めたころはこの粉末コーヒーは諦めて淹れたて珈琲店(確か、ポエムというチェーン店)に通うようになった。一杯のブレンド・コーヒー(一番安かった)を“ホット”言って頼んでは何時間でも粘った。
 ほかに行くところがなかった者同士が行くところでもあった。飲み終えた陶器のカップには乾燥したコーヒー色の筋が残っていたが。この辺りからコーヒー(ホット)は美味しいものだ、という舌・鼻の嗜好経験を得たのだと思う。やれジャマイカのブルーマウンテンだの,キリマンジェロなどが高級コーヒーであったのだが、学生にはブレンド(多分ブラジルがメインのミックスだったか)が手頃なホット(コーヒー)だった。
 そんな時代を経て街場のコーヒーのレベルが徐々に向上していった、と思う。普通の飲食店での品書きのコーヒーはインスタントコーヒー(だったと思う)のところもあったが、そこは朝一番に一度に大量の挽いた粉を大きな缶からネルのドリップ袋に移して淹れ落とし置いた(KやU、Aというコーヒー豆卸会社の粉を仕入れていた)コーヒーを注文があるたびに小さなミルクパンで沸騰しないように温めてカップに移したのだが、コーヒーの淹れたての香りが消えてしまったらコーヒーじゃない、という風なやたらに濃いだけのコーヒーが主流だった。それをお湯で薄めただけのアメリカンなんて言う薄口のコーヒーもブレンドに並んで売れていた。      その後、徐々に一杯ずつ淹れて風味を大事にする店も増えた。豆に拘り、豆を自前で焙煎し、注文の度にそれを挽き、お湯をよく回してカップへ落とす、という風な“珈琲道”的な珈琲の店が現れた。それは値の張るコーヒー一杯だったが、丁寧に淹れられたそれは何より味があって香りがよく、おいしいコーヒーってやはり手を掛けた(美味しく出そう、という意思)飲み物だった。
 ファミリー・レストランのような一時に出来合いの100グラムのパック入り挽いたコーヒーにお湯を自動で落としてデカンターに溜めて、暇な時間では煮詰まったようなコーヒーを「お替り自由」としたサービスも人気だったが、いつの間にかドリンクバーが流行り、そこには一杯ずつ豆をグラインドして抽出する香りのレベルの高いコーヒーも生まれた、エスプレッソとか言ったアイテムもこの機器ではチョイスできた。
 最近は若い店主が自己のコーヒーとして主張を持った豆のチョイス(産地、種類)や自分で焙煎をし(浅い焙煎、深めの焙煎)、豆の挽きかた、湯の回し方など工夫を凝らしている、カリスマとこの世界でも称される人たちが生まれてきている。そういう店でもアイスコーヒーを出しているかどうかは知らないが、あっても当方は間違っても飲まない。コーヒーはホット(外国でもホットコーヒー、と称するのだろうか)に限るとこちらは思い込んでいる。一時はエチオピアのアラビカ種のフレンチローストがいいじゃないですか、と若いコーヒー店主に薦められて深くローストした豆を200グラムずつ購入し、無くなればまた200グラムと買い足したがすぐなくなってしまう。その量は大体20杯分ぐらいで紙フィルターのドリッパーで淹れていた。結構、家庭でも本格的な好みのコーヒーを飲める環境になってきた。ふと、昔、50年前からのコーヒーの体験談になったが、猛暑の中の水分補給の話に戻る。
 ああ、暑い。この時期一番うまいのはミネラルウオーター(500㏄ペットボトル)を冷蔵庫で冷やしておいて飲み切るのがこの時期の猛暑の中で飲む飲料ではある。暑い暑いと汗をふきふきしている外出先で仮にアイスコーヒーしか残っていなかったとしても多分よく冷えた缶にせよペットボトルにせよ、手は出さないだろう。冷却されているかもしれないが似非珈琲的冷却水は美味しくないだろう(あれ以来、アイス・コーヒーは飲んだ試しがない故に昔の好みの印象である)。貧しい時代に生まれて育った者が好き嫌いをすると、そんなら食べるな、と言われたものだがこのアイスコーヒーなるものは、そんなら飲まない!。自宅の裏庭にある井戸水でも飲むから。この猛暑は水分の十分な補給がまづは優先で、好き嫌いを言っている場合ではないのだが。

*アイスティーに好んで使う紅茶

財布の中身 

財布

いつだったか元、勤めていた会社で若いころの上司だった方の自宅に誘われて訪ねたことがある。都内の主要駅から近い場所に建つマンションの応接の一部屋に入るとグランドピアノがあり、脇にはシックなサイドボードがあって、そこに並んでいるのは多分高価なブランデーであったろう。隣の部屋は奥様の専用茶室だといい居室はこの上層階にあるという
 久しぶりにお会いする元・上司はこのマンション建物全部が自己所有であり、隣の棟もそうで、道挟んでの棟の一部の部屋と駐車場も持ち分所有だという。先祖からこの辺の土地を広く所有していて土地バブルの時に土地をマンション化したという。そして会社を辞めて土地取引の資格を取得して不動産会社を作りこれらの資産を管理運営をしている、という土地成金的なリッチな暮らしのご自慢話であった。
 ○さん(と私を呼ぶ)、ちょっと財布を見せてよ、という。パンツの後ろポケットからくたびれた茶色の革の二つ折りを「中身はないですがね」といって応接テーブルに乗せると、それじゃあお金は増えないね、と言いながらジャケットの内側から派手な黄色の長財布を見せびらかす(見せていただいた)。わかると思うけどね、これはフランスの「H」の財布でね、蛇革のいいもので、大事に使っている、という。
お金は折り畳んではだめ、という。これ、いくらぐらいだと思う?、と言われて20万円ぐらいでしょうか、というとニコリとしている。
 こういう会話はあまり好きではない。こちらの二つ折り財布は会社を辞める時に秘書室の女性秘書二人が「お金が減らない財布です」として渡された愛着のある財布である。
 それでもこちらのこの二つ折りの財布はそれから8年間の年金生活疲労が蓄積している。四隅はすり減って色変わりしている、いろんなカードを収めてパンパンである。取り出すのにいつもイライラするプラスチック・カードケース、というような状態の財布、である。この財布もそろそろ買い替え時かなと思っているとき、あの黄色の蛇革長財布を思い出している。長財布を持つ、という習慣はないから当然二つ折りの財布をインターネットで探す。今の財布の中のカード類の多いことと言ったらない。キャッシュカード、クレジットカード、ポイントカード、パスカード、メンバーズカード、免許証、保険証、様々なカードが、あまり使用しないカードまで収まっている。この財布さえあれば、このカード類があれば当面は困らない、何かあっても自分を証明できるし、金銭も用意できる、という具合の財布は失くせないし、失くしたら路頭に迷う(大げさだが)。
 そのカード類のリストラをし、主要なものが収まるポケットの余裕のある財布、紙幣は額面によるが多くて10枚もあれば事足りる。硬貨はポケットでいい。という風に金銭が絶対的に必要で、なくては不安になる性格、性分である。たまに金額の張る買い物インターネット通販だし、店頭ではクレジットカードであるし、ポイントカードも兼ねるそのカードの使用が多いのだが、最近コンビニなどで見る風景でそんなもの(コインで間に合うようなもの)までカードで支払うのを見ているとどうやらサインなしの金額でも「スマホ」で決済、“何とかペイ”、という電子マネー決済方法をとる人が増えている,まさにスマホが“おサイフケータイ”、である。
 都心のインバウンド客は殆どがスマホでの「QRコード」をかざしての決済で済ませており、金額の多寡は関係ない。支払いはスマホ、が普通なのだ。
 先だって中国の西域に旅した時に,”おっ”と驚いたことがあった。ホテルの近くのコンビニ的店舗でペットボトルを購入した時に紙幣を出したところ、はっきりと不快感をキャッシャーの女性は示した。他の客(地元の人たち)はスマホをかざし、手際よく会計を済ませていた。も一つは観光地の露店の土産屋のことである。個人商店のような粗末な場所でドライフルーツのようなものを観光客に商っているのだがその際にこの農家のオバサンの会計は板きれに張り付けられている自らのコードを読み取り、観光客もスマホで買物できる様子を見て驚いた。日本では見ない光景である。日本が東南アジアのガラパゴス島となりかねない。
 この旅ではホテルでチャック・アウト前の枕銭だけが紙幣一枚、あるいは小さな硬貨である。国際クレジットカードの使用や、マイレージポイントカードの使用、あるいは空港での外貨への両替なんて旅の習慣は既にスマホでの決済に転換が進んでいるのだ。金額の多寡にかかわらず、リアルな金銭の持ち歩きはいずれ無くなるのだろうか、と最近の決済についてそのように思っている。
 何か月か前に「仮想通貨」というある一部の人たちが投資か投機かはその目的は分からないが、ぼろ儲けできる、という触れ込みで、その一般の個人、私企業などがデジタルの世界で流通するプライベート貨幣を発行し販売している、という情報があった。
 その何の裏付けもない保証も不確かな仮想通貨をリアルな円・ドル・ユーロなど各国の保証がある法定通貨で購入し販売し、価格が大きく変動する仮想通貨の値上がり益を手にする、という貨幣的仮想通貨を発行している設立間もない仮想通貨発行所的企業の情報システムに不法に入り込んで600億円近い金銭が引き出された、という不正事件があった。
 驚いたのはそのような巨大な投機金銭マーケットが存在し、そこに忍び込むインターネット、デジタル技術知恵の秀でたものが桁違いのその仮想コインを引き出した、そしてその投資だか投機高で損失を被ったものに日本円で全額損害額を弁済すると胸を張り、保障しても資金的に企業には経営不安はない、内部留保はかっちりとある、という事を言うのを聞いてこのインターネットでの新たな金融世界の恐怖を覚えたのだ。ちょっとした金融工学的な知識を持った若い人たちがそういったシステムを構築し、仮想通貨なる決済道具を販売し、それを売り出す。この事件が起きるまで国の金融を管理監督する部署は関わらなかった、というから抜け穴があったのである。おっとり刀で、そのような林立する仮想コイン発行会社へ厳しい監督のために調査に入り、許認可制にする、あるいは廃業の指示を出す、という緊急の手立てを講じた。これらの会社の仮想通貨ではその時点での価値で購買が決済できる、というのだから我々の感覚でいうと「金銭」の発行会社、大蔵省・日銀の代わりをするような状態ではないか、と不安になる。大手の上場しているインターネット関連の会社もそのような未熟の会社を買収したり、独自に立ち上げたりしているからこの「通貨」の世界も大きく変化してくるに違いない。
 二つ折りの新しい財布を、カードの沢山収納できる財布を、と言っているこちらはかなり遅れている、と自覚しはじめている。スマホを使い切れていない、QRコードを使いこなせていないのはガラパゴス島の動物と同じだ。あの黄色の蛇革の長財布が自慢の先輩は今も紙幣でパンパンの財布を持ち歩いて札びらを切っているのかしら。


8年間浪費を防いだ?いただいた財布と新たに購入した「印伝:青海波の二つ折り財布」

「希望は」 


身体

 今も世界のどこかでは戦争が起きている。戦争のほかにも内戦であったり、武装勢力によるテロ行為であったり。そこでは大国が軍事支援をしたり、対抗したり、国際機関がそれらに大義をもって参戦、参加したり、である。
 内戦等の状況をニュースで見たりすると、当然ながら悲惨な場面、虐殺、殺戮があったり都市の壊滅的な破壊の画面が出てくる。その中で遠くの都市をぴピンポイントで+マークのそこに的確にミサイル攻撃して粉塵が立ち上るような遠距離映像を見ている中で、近距離の住宅地域の一般市民の、女性、子供、老人などがその戦火から逃げ惑う迫った場面も見ることになる。そのようなフィルムの中で破壊された都市の中の治療が不十分な医療施設の中の粗末なベッドに多くの少年たちが収容されている場面があった。片足を失い、あるいは両足を膝から下を失い、包帯で包まれているその無くなった、あるべき部分のない体は本当に痛ましく見え、言葉も出ない。
 その多くが収容されている少年たちのその眼差し、表情にカメラは近づくのだが、その目は輝いていて失ったことの失望感はその目にはなかった。その眼差しは、何によって生まれるのだろうか。五体満足であっても無力感に包まれている少年もこの世にはいる、沢山いる。どこにあの五体の一部を失った少年たちのその環境の中で目の明るさというか生きる力を見ていて、言葉が詰まったことを今思い出している。
 その思い出を引き出したのは、何げなく本を引っ張り出して読み始めたその本の冒頭の言葉である。この本を書いたのは関心を深く持っていた思索家というか文明評論家というか、文学者でもある、医者でもあった「加T周I」というリベラルな立場を常に崩さなかった人の書いた著書である。多分、こちらが今の世相(民主主義政治のいい加減さにウンザリしている自分、かっての昭和時代から平成前半に発言をしていた知識人のような人がいない、国民に正しい情報を伝えるべき使命を持つマスコミの権力への諂い、と思える情報伝達の取捨伝達の偏りなど今の時代の、言ってみれば平和感覚力の喪失、など)に対しての無気力な自分を無意識の中に感じていたからかもしれない。
 その批評家の書いた著書の冒頭の一行は『シャンソン歌手のI井Y子さんが語っていた。地雷で片足を失ったカンボジアの少年が「希望は」と聞かれ、「もう一本の片足を失わないこと」と答え、I井さんは胸を突かれたというくだりがあった。私も衝撃を受けて、しばらく先を読めなかった。』。それに続いてK藤氏は『戦争は犠牲者に老若男女を選ばない。自業自得の大人はともかく、何の責任もない子どもたちの未来と可能性を、戦争は有無を言わせず根絶やしにする。「こどもを救うのに国籍は関係ない」というI井さんの救援活動を、私は全面的に支持する。』とこのように言うK藤氏に私は共感し信頼をするのだ。
 今から数年前にカンボジアに旅をしたことがある。この国の内戦(1975年から1979年の4年間)では国の人口の1/4近くの200万人が当時の共産党のクメール)・ルージュ独裁者ポル・ポトに虐待・殺戮されてその国の医師・教師などインテリ層が消え、多くの文明の遺跡も破壊された、というその地に観光客として入ったのだが、シェムリアップ空港からバスで中心地に向かい、そこの観光客向け(日本客)ホテルで宿泊した。道路も舗装されていない埃っぽく、むっとするその街を幾度となく自転車タクシーに呼び止められるも徒歩で歩き粗末な平屋のマーケットのような一角にあるレストラン(旅行客向けの)に向かったのだが、その店頭には片足の無くなったカンボジア人を多く見かけた。多分、その人たちはあの内戦で殲滅された人たちの中の一人の命は助かった人たちなのだろうか、片足は地雷で失ったのか、とも思った。しかしこの国のその後の民主化は遅れ経済的成長による暮らしの充実はまだまだのように感じた。このカンボジアの内戦が終わって解放されたのはまだほんの40年近く前のことである。店頭のプラスチックの派手な椅子に座っていた男性がまだ小学生以下のことだったろうか。あの内戦によってこのカンボジアには何と600万個の地雷が撒くように埋められていた、いまもある、という。東南アジアを“観光旅行”する”時に、常にこの第一次、第二次世界大戦の歴史を頭に置いた見方をし、日本人が故の負いのある地域の痛い観光になる。
 彼らもあの当時はニュースの画像で見た透き通った眼差しをもっていたに違いないのだろうが、その後の政治体制の選択、リーダーの力、左・右の大国の軍事的、経済的な同盟支援体制の違いでその進化の差は大きいのだが、その国の中の子供たちには何の罪もないのだ。再びあの内戦の困難な状況に戻らないような大人の未来に対する責任が大きいのだ。先に豊かな国になった各国の助力は義務、としてある、と思う。
 武力による戦い(いかに人を多く殺人するか)、人が判断しない(人間の悪の責任感を感じさせない)攻撃、軍人の手を汚さない高度な(瞬時に大量殺人・破壊できる)武器、この地球を一気にいくつも破壊し消滅させうる近代兵器をもってそれで自国の国土を国民を守る、という時代遅れの感覚を持ち続ける大国、チキンレースのような外交、理念なしに自国(自分?)本位・優先を繰り返す世界のリーダーたちの地球人への責任感覚が既に旧時代の感覚になりつつある。
 あの「希望は?」に答えた「もう片方の足を失わないこと」と未来を見失わないクリアーな目の少年の将来にこたえるのが、政治ではないだろうか、と思うのだが、あの病院の映像を見たならば子供への大人の責任を考えずにはいられないはずである。

すれ違った人 


瀬戸山暁治エッセイ

 画家であるが筆も立つ、という方(N見山暁治)のエッセイ集がまた出ている、と知りインターネットで注文すると翌日には届いた。そのエッセイ集は「Mんな忘れた」(記憶のなかの人)というタイトルで早速、頁をめくり始める。御年97歳というから一世紀を生きている、そしてお元気で絵画も制作し、なおかつエッセイを継続して出版する。日記集も定期的に出版し、そのいづれもそのたびに購入をしては楽しんでいるのはその画家が九州生まれであり、美術大に行き、出兵経験があり、芸術の華やかなりしパリに学び、当時のパリに留学している芸術家と交流し、パリの人気画家とも刺激しあう、結婚した女性をパリに呼ぶも間もなく亡くなり・・・、とそのような異国の経験が興味深くて読み続けることになったのだ。勿論、現在も東京と福岡を往来しながら制作をし絵画展、個展、作品の展示場所に出向いてその年齢に構わず活動は衰えていないし、その画家らしい行動や発言などの個性を読んでは楽しんでいる。
 97歳、ともいえば沢山の友人、知人、身内の人たちを見送っている。既にご存命の方は少なく、パリに留学していた人たちとの当時の交流や、活躍、そしてその人たちの個性などが鋭く、正直に捉えられて描かれていて、その独特な文章によるその人たちの人間表現がまた魅力的なのだから、幾度聞いても(その都度エッセイや日記などに少しづつ面白く書いている)味わいが癖になる文章なのだ。
 なにせパリ時代の「藤T嗣治」のことを今、生き生きと語れる、というのであるから凄い、長生きしている、と思うのだ。
 今回のそのエッセイに登場する画家は勿論、小説家、美術評論家、画廊主、福岡の財界人そして身内など22人の忘れてしまった人(今や鬼籍に入った人)たちのとっておきのこの画家にしか今しか語れない、忘れない人物像があって面白い。描かれた人が面白く書かれて面白く、そういう性格の人とそのような関係・お付き合いだったのか、と知ることの面白さである。
 そのネタは過去のエッセイ集にも、また日記にもたびたび出てくるのだがまた違った表情をその文章は描かれた人に与えるのだからよく記憶しているな、と年齢相応の忘れ方はしていない様子なのだ。 描かれた小説家の「O川国夫」は好きな小説家で静かな思索的な人、というイメージを持っていたのだがこの画家とのパリでの暮らし方を読むと、また違た小説の背景を想像するし、その作家の違った性格を思ったりする、財界人でもこちらが赴任していた時代にお会いした(単に挨拶だけしただけではあるが)人の風貌や趣味などをここで読んだり、ちょっとした瞬間の思いめぐらすことがこの文章の中で出てくるのだ、そういう楽しみ方もできる。
 この画家の活動で今風に言えばリスペクトしている「M言館」という戦没者の作品を全国を回って収集し、展示する活動を一緒にしている美術館主である「K島誠一郎」との関わりの文章が「M上勉」という“忘れえぬ人”で書かれている。
 よく知られたようにこのK氏は幼いころ実の両親から育てられぬ、という事情で人に預けられ、戦争の混乱の中で双方とも行方知らづとなった、しか預けられた商売店で育ちつつある少年はその育ててくれている両親がどうも実の両親ではないかもしれぬ、体つきも顔つきも違う、と育つにしたがって疑い始め血液型などを調べて、喫茶店などをしながら生活をしつつ、探して探してやっと自分の実の父親は・・・、とたどり着いた(1972年・・・31歳のとき)のが当時の人気作家である「M上勉」であった、という感動する実話を多くの人は知っている。その、人に預けて去った父親と思しき人はすぐ近く住んでいた。その人に手紙を出す「自分は決してみすぼらしい人間ではないという自負と、いきなり名乗り出る無作法に、決して他意のないこと。ただ長年かかって探し当てた者としての報告、といった哀しいまでに抑えた手紙だ」、と画家は抑制された文章で紹介をしている。M上氏の若き時代の生活苦の中で生まれてしまった子供、息子を他人にゆだねるような印刷工の困窮、空襲により預けた靴修理屋の場所は焼け野原となってしまっていた。
 まさに小説のような実話であるのだがこの小説家もこのエッセイに紹介されている。タイトルは「哭く人」である。読んでいてこちらが泣くような涙がにじむ話である。
 戦没画学生の作品を全国駆け巡って蒐集し「M言館デッサン館」が信州・上田の丘の上に完成した。勿論、この画家もそこにいる。その竣工の日に「車椅子で、早くから顔をだし、列席の人たちに丁重に挨拶を繰り返していた」と。「産みおとしたきり、どこで育った実の子が、いつの日、習い覚えたものか、早世の画家の絵を集めて1079年に「S濃デッサンS館」を建て、いま又、戦没画学生の遺作を拾い出して、立派な美術館「M言館」を1997年に作った、と父親のような感慨、咽ぶような言葉で画家はその時の思いを書いている。最近作の「Aトリエ日記」の2015年4月19日「M言館」の維持が心細いので描いた、小さい絵。まだ足りん」。」4月20日「再びM言館用の小品にとりかかる。」4月23日「K島さん、M言館の受付をやっていたと言う」、6月7日「年一度のM言忌も18回目を迎え遺族の顔ぶれも、それなりに世代交代している。」8月14日「富山でのM言館展。翌年の6月4日、いつもの無言忌前日」、「Sゾン現代美術館に」。「翌日無言忌に」、とK島氏と共にM言館関連はライフワークとして忙しさはずっと続いている。
 画家はK島氏の娘さんの結婚式に招かれた。M上氏の胸のプレートは「祖父」とあったという。様々な思いが交差する実の子と実の孫の晴れの日である。「カップルのキャンドルサービスが近づいてきて画家たちのテーブルに近づいて、僕たちの前に立った。「祖父」、はさっきからずっと眼をを伏せたきりだ。ああいう固く忍んだ静けさを、慟哭とは言わないのか、涙がとめどなくあふれていた」。画家が表現する映画的なシーンになる。
 今から5年近く前になるか、勤めていた会社のグループの代表が亡くなられてT国ホテルでのお別れの会に出席した。その帰路、地下鉄日比谷駅を出てN生劇場の方向からこのT国Hに向かってくる結構体格の良い、黒いちょっと長めの髪の人がショルダーバッグを肩にかけ黒いジャケットに、黒シャツで俯き加減にこちらに来る。お別れの会への平服での出席なのだろう、とすれ違いざまにその方をチラッと見ると、「K島誠一郎」さんだ!と分かった。軽井沢にSゾン現代美術館がある、その先の上田には「M言館」がある。こちらにとってはこのエッセイの中で書かれた話にちょっとしたこちらの記憶を触れさせてみたのだが,熱くなる。
 このような感動的な記憶が集められている、取っておきの亡くなったけれど記憶している、忘れるわけにはいかない逸話集である。