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あっ、どうも。 

  




 さて、どちらさんであったか、向こうから来る人の顔は見覚えがあるのだが、知人でも、友人でも、親戚でもないし懐かしい人でもないがすれ違う前にちょっとその人と目があって目礼をする。その方も目礼を返してくれるのだが、言葉を交わすこともなく、通り過ぎるのだが誰であったかな、と思い出そうとするも思い出せない。気になることであるが少し時間たってからああ、あの有名な方じゃないか、親し気に挨拶をしたけれど、という事が昨日もあった。
 会社時代の先輩から銀座の会員制の倶楽部で昼食をと誘っていただき、ドレスコードがあると聞いていたその場所に出向いたのだが大きなそのレストランは昔ながらの天井の高いスタイルの(この場所は高層化になる前、創業以来の内装建築を再建したクラシックなレストラン)レストランは、徐々に満席になりつつある真っ白なクロスの張られたテーブル席で食事を楽しむ。近況を話しながら一服という間合いがあって店内に一目まわすと隣の席(といってもテーブルとテーブルの間はたっぷりと間がある)に「ん?」、見覚えのある方が、おられてこちらと同じようなタイミングで目線が合った。
 いつもの癖で‟あっ、どうも”という感じでの目礼をしたのだが、そちら様も‟あっ、どうも”と例え知らない人であっても礼儀として軽く目を交わしてくれた。かといって、こちらのテーブルの先輩にあちらはどちらでしたっけ、と聞くわけにもいかずこっちは会話を進めていたのだが、その間にも「誰だったかな」と気にはなった。
 このような経験はこちらが知っているだけで先方はこちらを知らない、全く縁もゆかりもない有名人の場合が多く、友人等の空似というのではない。TVや新聞写真などで顔を見て記憶にある方とたまたますれ違っただけなのだが、つい知人、友人的に親し気に目を交わしてしまうのだ。
 以前、サンフランシスコの坂道の途中で向こうからマントのような黒い上着を着た方(もちろん日本人)が友人らしき方と歩いてくる。異国での日本人とすれ違うのは何か親しみを感じるのだがそのファッションにも目が惹かれて見つめると“あっ、Tさん”、とやはり目礼をしたら先方もそのようにして返してくれたことがあるのだがその時Tさんと歩いている連れの方が多分、お知り合い?という風な一言があったような感じであった。こちらを知っている筈はないのだがこちらは以前、多勢の中の一人として現在音楽の小さな演奏会でその風貌(小柄な方で、顔貌も芸術家っぽい方)は記憶にあったから、異国での遭遇に一層、やぁ、的な挨拶になってしまったのだろう。
 その方との繋がりでいえば作曲家は既に亡くなっていたのだが後日に、新宿の初台にある「Oハウス」の大きなコンサートホールでその作曲家の作品の演奏会があって聴衆の一人として参加したのだが、その際に演奏会場の入口近くの壁面によりかかっていた一人の髪は長めで厳しい顔をしている老人がいた。この方は直ぐに「Kさん」と分かった。サンフランシスコで黒いマントを翻すがごとくに歩いていた作曲家とは親しい友人であったのだろう、その方は作家であり評論家でありその著述家の本は結構読んでいる。ここでも「あっ、どうも」的な目礼をしたのだが厳しい顔は崩さずに、目礼をチョッと返してくれたような感じではあった。
 最近でもそのような癖が出たことを思い出す方は詩人である。渋谷の「B村」の映画館に行ったときである。こちらはすでに見終えてエレベーターで下に降りようとしていたところ次の上映に来たのだろう、乗ってきて降りようとしたこちらとドアが開くなり3人連れの詩人「T」さんが(禿げ頭で、Tシャツを着、メガネがずり落ちないように首に下げていた、独特の風貌にはTさんに違いない)入れ代わりに降りようとした、咄嗟に「あっ、どうも」と声が微かに出て目礼をすると、その小柄な詩人も目礼を返してくれた。ただただこちらがそのような著名な方々を間接的に知っているだけなのだが・・・TVで見た一人、愛読している著書の一人、関心のある音楽の作曲家の一人、であるがこちらはファンというか親しみを感じての反応なのだ。
 会員制の倶楽部レストランで隣の席で食事をされておられた方はこっちがそのテーブルの脇を抜ける帰り際に思い出した。先日、NHKのインタビュー番組で現在の金融緩和策の良しあしを語っていた、前・金融界大元締めであられた「Sさん」であることを思い出した。ここで書かせていただいた方の他にも経験があるのだが、すれ違いざまの「あっ、どうも」という挨拶は失礼ではないとおもう、先方は「あれっ、誰?」「知らないなあ」と不思議がっているかもしれない。人気のある芸能人やマスコミに繁く登場する方たちにはこちらが目礼しても(する機会は皆無だが)「ふん!)で終わりだろう。
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懐かしき街 


こけしや

 週に一度は通っていく高田馬場。そこでの用事が終わって地下鉄の東西線で東に向かい飯田橋乗り換えで都心観光に向かうのだがたまには西へ、と今回は三鷹方面に乗って西荻窪に。この東西線の三鷹・神楽坂間は学生時代に良く利用した。そういえばその出版社でのアルバイトの時代にこの東西線が開通した。懐かしい路線である。そしてその路線と中央線(中央線と中野まで線路は共用、というか乗り入れだったと思う)が学生時代の良く使う鉄道であった。
 上京したての頃は親戚である叔父の両国の家に「仮宿」とでもいうのか一時寝泊まりし、その後は三鷹の知り合いの紹介でまたその知り合いの家に「下宿」(懐かしいシステムだ))した。いわゆる賄い付きでその家族と一緒と食事、と言っても定年まじかのご夫妻の家庭で朝食と夕食が付く、間借りであったが気を遣っていただくのは良いのだが(果物のデザートまでつけてくれた)ご夫妻の初めての素人下宿に窮屈さを感じて、一年で脱出すべく近くの駅周辺を探して三畳間の西向きの部屋を借りることにした。      住所は吉祥寺であるが最寄り駅は西荻窪というなんか中間のような当時は中途半端な住宅地にあって、今はそのような言葉さえ無くなった「自炊」をすることもできる狭い流しが付いていた、トイレは共用・風呂はなく銭湯に行く、けれども新築の学生専用のアパートの新しい小さい部屋へ移り住んだ。
 自由になった、友人も呼んだ、狭い中で簡単な食事も作った、夜が長かった、話疲れでごろ寝である。家具などはなくアルバイトで少しずつファンシーケース、小さな赤外線ランプの炬燵(机兼用)、本箱、座布団などを、小さな電気釜、フライパン、鍋と食器(コップと茶碗など)を、と買い揃え、そしてきた着た切り雀と揶揄われた学生服におさらばしてその時代に流行したIVYファッションの衣類を増やしていってファンシーケース内が詰まってきた思いがあるが、最初に買った服は憧れのブランドのグレーのヘリンボーンのジャケットとボタンダウンのシャツだったことを今思い出した。それらは吉祥寺の街で買い物をした。食事はアルバイト代が入る前は自炊で凌ぐのだが思い出すのはカレー、麺類、五目御飯の素が重宝であって親しくなった八百屋でサービスしてもらった野菜の炒め(肉なし)などである。当時、まだ外食、なんて言葉はなかったような気がするが洋食レストランや喫茶店、定食屋、中華そば屋、蕎麦店兼丼物屋という商売は駅近くに揃っていた。
 駅前には地元で有名な「Kけし屋」という「仏蘭西料理」という看板を掲げた洋菓子販売とレストラン営業をしている店で客はその地域の豊かな層の家族が何かのお祝い、いわゆる晴れの日にめかしこんで今日はご馳走よ、、とするような場所で一貧学生には高嶺の花、縁遠いレストランで敷居が高かった、入口のガラスドアは厚かった。そこに住んでいて一度も利用したことがないし、友人と飯でも、となった時は食堂という庶民的な洋食のような店だった筈であるがどこだったかは思い出せない。店名も場所も。
 ここで一貧学生と書いたがそれは今現在の物差しで当時を振り返って言っているのであって、当時は貧しい学生というような意識は持っていなかったように思う。衣類の不足、生活道具の少なさ、住む部屋の狭さ、食べられる食事の乏しさなどは、仕送りの恵まれた学生友達とも付き合っていたけれど、卑屈になることもなくアッケラカンとした暮らしだったようにおもう。
 そんな暮らしをしていた街、場所が今は大変若者に人気である、と情報雑誌などで見る。吉祥寺と荻窪に挟まれて地味だったその駅の南・北周辺は各国料理(主に東南アジア系)やバールとかいうこじんまりとした若者が運営する店が路地に並んでいる。大手資本の大きなショッピングセンターがあるわけでもない、おしゃれなファッション店があるわけでもない、ガサガサしない狭い領域の住宅地のスピード感、生活感が何となく馴染めるのだろうか、小さな雑貨店など、アンティーク店なども並んでいる。高架下の商業施設は明るくて落ち着いていて地元の人たちも住みやすい街だ、と感じているだろうと思う。
 50年も前のこの地は中央線などは高架になっていなかった。チェーン店なんて飲食も、ファッションもなく個人営業の店舗であった。それぞれの店がその近くの住人と馴染みであった。いまは駅前の飲食店はチェーンの店と個人営業の店と、昔ながらに頑張っている店と代替わりしている、商売替えをした店と混在し、住民の多くも多分代替わりをしたり移入、転居した人たちも多いだろうとおもう。店の並びを見物しながら思う。あの駅前の露地のようなところにあった飲食店、喫茶店(Dは頑張っている)、アルバイト代が入ったr時に太巻き鮨を一本買って帰った鮨屋(カウンターで食べるほど勇気はなかった、もちろん懐も寂しい)、野菜をいつもプラスしてくれた八百屋、銭湯、本屋、古本屋とあった跡をぶらついた。線路沿いに吉祥寺方面に歩き左に曲がり、そしてすぐ右に曲がってもう住宅地であるその奥の左のどん詰まりにあるモルタルつくりの住宅はまだあった。西日の差すその部屋の窓枠にランニング姿で大きなコーラの生暖かいボトルを抱えて(冷蔵庫も、電話もない時代である)「・・・又落ちてしまったか・・・」と就職活動の結果電報を見ながら「嫌になったなあ・・・大学の就職課の掲示版を見に行くか」と焦ったことを思い出す。就職難の年だった。
 そのころを思い出しながら高嶺にあるレストランで食事でもするか、と行ってみると3階がレストランでおすすめコースが税・サービス料込みだと8,000円近くになる!。今でも高嶺(値)のレストランであった。裏に別館が出来ていてテラスレストランのようにもっと手軽にランチが食べられるらしいと行くと「本日のランチは売り切れました」と書いてある。しょうがない、じゃ、ケーキでも食べさしてくれ、わざわざ50年前行きたくても入れなかったのだから、とサバランとコーヒーで西荻窪での昔の暮らしを思い出してみた。
 食事はその近くのあの鮨屋があの辺りにあったなあ、という場所に行ってみたが影も形もなかった。その斜め前の角地に真っ白な暖簾を掲げた蕎麦店「Kらま」という表示の店があってここにするかと入る。20席ぐらいの狭い店であるが満席で美味しそうな予感がし、待つことにした。客は多分、地元のお客さんで主体のようで中高年の連れ合いでの昼食なのだろうか。こちらは「甘皮そば」を注文する。塗り箱に入った黒っぽい太めの蕎麦が晒葱、山葵、卸大根を添えられて出てくる。100%そば粉で、目の前の石臼で挽いた、というその蕎麦は食感がもちもちして食べ心地が良く汁も塩辛くなく、程よい味であって好。蕎麦湯も少しとろみがあってこちらも良し。街は、店は変わってしまっても新しい店が街を形成している、生きている、と感じた次第。
 この路線(中央線・東西線)は上京した当時から両国・三鷹・西荻・武蔵境、と転々とし、高校の仲間で上京した多くはこの路線に住んでいた。荻窪、吉祥寺、阿佐ヶ谷、高円寺、東中野・・・、訪ねて自炊の食事をしたり泊めてもらったり、止まらせたり、ふざけあったり、喫茶店(いろんなタイプの喫茶もあった)で何時間も粘ったり、時間はあるが用もないのに、金がないからぶらぶらと水道道路を歩いて井之頭公園などにいった、50年以上前の青春は中央線に乗って、だな。池袋の会社勤めになってからは当時も惹かれるものもないただ会社に乗り換えなしで通えるというから選んだ東武東上線の下赤塚に引っ越した。米軍の住宅があったグランドハイツ跡に建った新築の憧れの賃貸の公団住宅2LDKに当選したからだ。そして結局この路線で奥へ奥へと転居をしてここが終の棲家、となりそうである。
あの西荻の仏蘭西料理屋のKOやコーヒー店DAや無くなってしまっていたけれど太巻だけを買ったKIという鮨屋、そして気の利いた蕎麦屋のKUなどのような店がないのは残念である。食文化地層がないのだ。お手軽なチェーンの店が世代交代しながら公害道路沿いに並んでいる。駅前はチェーンの居酒屋である。地層となる前に消えていく。


 
 
 

グルマンか。 


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 最近目にする言葉に「昆虫食」なんて言葉がある。お堅い経済新聞の小さな記事にこんなことまで記事にするのだろうかと思ったものだがその記事は外国の人が酒に酔った勢いなのかナメクジをそれも生で食べてしまった、そしてその食べたことが原因で長期の意識不明の症状が続いたのだが結局亡くなった、という記事である。変なもの喰ったな、命を落とすまでして、酔った勢いとはいえ・・、と思ったものだが、変な事というのはその人間の生きている自然環境や文化によって変ではない、という事が身の回りに多くある。
 その昆虫食が人気だ(とちょっとした変わった嗜好がニュースになる)と言われたのは身の回りに生息する蝉やタガメ、バッタ、蜂,蟻などその卵、蛹、幼虫を焼いたり、炒めたり、蒸したり、茹でたりして食用にする、と一応は加熱調理したものを食べるのは勇気はいるが毒ではなさそうである。蝉などの蛹を食事した人の経験ではトロリとしたミルクのようなチーズのような味覚であり、成虫を油で揚げて食べた人はカラッとしたもので美味しい、とも。
 日本でも確かに小さな昆虫、例えば蜂の蛹を佃煮のようにして食したり、イナゴの成虫も同様の食べ方をする地域もあって他の地域の人たちからは奇妙な目でみられて、珍味だ、うまいぞ、と提供されるも手を引っ込めたりする食物でもあるし、外国ではゴキブリを素揚げしてたべるとか、カミキリムシやクモなど動いているものなら何でも食用になる、と様々な昆虫を蛋白源として常用食としている東南アジアなどにはその食習慣の地域が沢山ある。
 自然の異変による食糧難の地域や紛争・戦争、などでの食料飢饉のときには昆虫などの生き物までがまさに貴重な食糧で有った、そしてその中には美味な高級食糧になったものまで多くある、それが食習慣となって今に残っているのだろうか、その昆虫の干物のようなマーケットまでがその地域にはある(らしい)。かって東南アジアの戦地で飢餓に襲われて蛭まで食べた、という日本兵の戦中記での記述を覚えている。
 その生のナメクジを食べた人もカタツムリだってエスカルゴと称して食べるじゃないか、とでも思ったのかもしれないが、そのじめじめした名前のそれの体内には「広東住血線虫」という寄生虫がいてそれが食後にめまい、吐き気、手足のしびれ、失明、骨髄炎などの症状を起こして、結局8年間の昏睡状態で意識が戻らず亡くなった、という。貝殻を背負ったあの兄弟分のカタツムリはオリーブオイルなどで油調し塩や香辛料で調理して食べるから仮にその寄生虫がついていたにせよ殺菌後の食物、である。
 生で、食うかね、あの捉えどころのないふにゃふにゃしている(捕まえたことはない)地を這う生き物はどんな味かなと思うも気味が悪くなる。
 そんな記事を見たとき、最近出版されたT野H行という著者の「H境メシ」という秘境のような地域で日本人は日常食としない動物や昆虫などを部位や種類を食べることを仕事としている人の勇気ある経験談を読んだ。さすがこの人もナメクジを生で食べてはいない、そのような場に遭遇はしていないが生焼き状態のカタツムリを間違えて食べてしまった経験談が書かれていた。貝殻を外せばナメクジだな、その生焼きの味はどうか、としっかりと火の通ったところはエスカルゴに似ていた、という。生の部分の「舌触りはにゅるっとして、噛むと中心部に妙な弾力を感じた記憶がある。生のカタツムリと言えば、ナメクジと同じものだろう。思わづウッと来かけたが素知らぬ顔で飲み込んだ。」という文章があった。世界の変わった食習慣や奇妙な(こちらにとってはゲテモノに近い)食べ物を食べ歩いた人でさえそのような食感、食味である。
 新聞記事は多分、飽食時代の「昆虫食」ブームへの警告なのかもしれない。鶏肉は生では食べてはいけません、といわれながら鶏肉の生に近い状態で食べさせる、食べる人が「カンピロバクター」で菌中毒になり、牛の生のレバーを食べてはいけませんと注意されながら提供したり、食べたりした結果、寄生虫中毒で死亡したりする。ナメクジを食べた、ナメクジだと分かっていて食べた、そして死んだのだが、ナメクジの死骸ってみたことはないなあ、塩を振りかけると跡形もなくなるのか、あの地面にねっとりした糊状の這いずった形跡を少し残すが最後はどうなっていくのか、見たこともない。
 グルメ、食通といわれる人たちは珍奇なものを食べてそこに絶妙な味覚を発見し、通、と言われる。その食材や料理法が普及し進化していく、食の文化を形成していく。カタツムリを初めて調理し、食べた人は変人扱いされただろうが、いまのところ生き(活き)ナメクジ料理が珍味だ・・・と通ぶった人がいるとは聞いたことがない。
 

昨日は「116」。 


華氏119
 その日は雨模様で憂さ憂さしていたので、近場にあるシネコンで掛かっているタイミングの良いタイトルの映画を見に行ってきたのだがそのスクリーン前に居る観客はこちらを含めてたった11人、であった。日本ではあまり関心がないのか、それとも雨天の平日の12時からというのが寂しい状況の原因なのか。アメリカでは今日投票日であす(11月7日)が開票日なのだが盛り上がらないのは大統領選ではなく中間選挙の議席数を争う選挙なのだろうからか。
 アメリカでは今回の中間選挙が異色の大統領の信任選挙ともいえる色彩の濃い選挙となっており現大統領の基盤である共和党が上院・下院の多数議席を抑えるか、いやこのままでは一層独善的になっておかしくなってしまうと不信任を表現する民主党の議席を増やそうとする国民の意向が反映されるか、というアメリカ国民の今の意識を知る機会でもあるのだが。
 この映画の監督は突撃インタビューがその得意技でなかなか厳しいシビアな質問をぶつけて相手の本意を引き出すという権力への批判的なポジションでの映像取材とその編集は高い評価、人気を得てきて、二年前の「9・11」の大統領選では前評判は民主党の候補が優位であると報道したマスコミ、や予想した政治学者、評論家などが多数であったが、この監督は地道な取材を通して不動産業界のセレブである候補者がどうも有利にある、と言っていたのだが、選挙結果はその予想通りの結果となった。タイトルの「○○119」はその勝利宣言のあった日である。
 この大統領は当初は泡末候補的な際物的候補時から地道に取材を続けフィルムに収め、また大統領になってからもその異色の大統領の行動(パフォーマンス)や突飛な言動を細かく拾って集積し編集して2年間の実像を監督なりの視点で映画にしてきたのだ。
 政治的セレブでもなく、地方議会を経験したわけでもない、不動産会社のトップだっただけでその圧倒的な世界大国の大統領になってしまった人物の実像を提示している。ある時は企業のトップから地方の州知事となった政策は経済界寄りの政治手法(例えば水道事業の民営化で(利権)によってあらたな水源に切り替えたが鉛に汚染された水を底辺の住民に給水して健康に異常が現れてもその被害を隠蔽し、歪曲して認めないが、住民運動でその被害を認めて元に戻したのだが清潔な水はその地域の大企業の工場にしか給水しなかった、という政治)で権限を握ればなんでもできるな、と知る。
 ちょうど今は中米からのアメリカへの流入移民が引きも切らない、それを軍隊を用いて入国を断固して拒否する、という発動が大きなニュースで報じられている。国境への壁を作り入国を軍隊が武力を用いかねない姿勢に対してでアメリカ国民(かっては移民だった人たち)は拒否反応を示し、様々な民族差別、性差別、宗教差別、など様々な差別に対して大衆運動をおこしている若者、女性などが今回の選挙に対して投票で意思表示を積極的にしたという。民主党の下院の議席を増やし多数党,となったのはアメリカのバランス感覚なのだろうか。
 映画の中では監督は大統領の大衆に解りやすい、というか媚びた大衆受けする品のない言葉遣い、大衆を煽る身振り・手ぶり、取り巻きの自己兵隊化、反論・異論を持つ者の抹殺(更迭)などは昔のドイツの独裁者になぞらえている。ライバル的な大国にも同盟国に対しても、友好国に対してもファイティングポーズで一発噛ませて驚かせ、そのあとでテーブルにつかせて交渉をする駆け引き、など手法は古いが堂々とそれをやって見せる。強い国にする、というメッセージを国民、とりわけ白人労働者層に訴えて大統領になった。アメリカは強い国、優位な国、その国民と思わせる、それを回復させるという政治・経済を指揮する大衆迎合政治家である。
監督はこの大統領をからかうばかりではなくこの前の民主党の大統領も「政治家って同じだ」という映像を映し出す。あの汚染された水道水を給水している州に演説に行った。この水は清潔で安全である、という演説の場面で「コップで水を」と水の安全性を示すつもりで飲む、というパフォーマンス・シーンにカメラは口元まで迫る。その大統領はその水を飲むふりをして飲まなかった!。誰も政治家は同じだ、大衆には嘘を言う、とこの監督は言う。『○○119」という映画のチラシには『「この映画が公開されれば、Tランプ王国は必ず崩壊する」-「M・ムーア」』とあった。中間選挙は終わった。上院は大統領の共和党が多数を占め、下院は民主党が多数を取り返した。議会は‟よじれ”状態、となった。大統領はこの結果を「大成功」といって車に乗ったが車の中では俯いていて、あの得意のポーズの右手でOKマークを作らなかったし、支持者を指さすこともせづ、自ら拍手することもなかった。
 映画の中では若者がSNSで情報を共有し、大衆的な行動集会を開き動員し集まる活動的な女性のムーブメント、パワーを感じたのだが、やはり女性の議員当選者が今回は多かった。リアルに今後の政治のパワーの在り処を示している中間選挙の結果ではある。「○○117」の選挙開票結果は勝利だったのか、または敗北であったのか、負けず嫌いの大統領は「大成功」と言ったが何が‟大成功”だったのだろうか。M・ムーア監督の次作が製作されるとすれば『大成功」「○○117」』はどのような映画になるのだろうか、大統領への突撃インタビューは早速したのだろうか。二年後の大統領選挙までストックされる映像はどのように今回の選挙戦を編集するのだろうか。その映像の中には民主党の次期大統領候補が写っていたのか?。

庭木の断捨離 


白花マンサク

 何年前からか、「断捨離」という言葉がにぎわっていて身の回りにある物を不要在庫(個人的お宝)を少しは始末してすっきりとした暮らしにしてはどうか、という流行り言葉であったかとおもう。確かに購入した当時は欲しくて手に入れた高価だった趣味のあれこれ、身をかざる当時の流行の(トレンドの、というのか)衣類など、は売ってしまいましょう、捨ててしまいましょう、あげてしまいましょう、もう身に着けることもないだろう、という風に身軽にすると快感のように感じられた。
 確かに古くて今風でない、サイズも合わなくなった衣類が沢山吊るされている、書棚の奥には何十年前のベストセラーで読んだような小説の単行本などは一時、段ボールに入れて古本屋にタダで引き取ってもらったり、捨てたりしたのだが、次ぎ次にいらないなあ、というものが棚で目につくようになってきた。ゴミ化してきた。
 一人密かに悦に入っている(たまに引っ張り出しては)陶芸家の桐箱入り名入り器作品が沢山溜まっていたり、贔屓にしていた抽象ドローイング作家の買い集めた作品、小遣いで買い集めていた1950年代の北欧の器、好きな作家の初版本などは今も段ボールに入れたり書斎、というほどの場所ではないがそこに積まれたりしているが、売る、なんてことはとても出来ない。
 じゃぁどうするのか、と問われると返事に困る。 ふと温かい秋の日差しの外を見ると矢張り狭い庭にも好きで蒐集して植えこんだ樹木が成長し、高く伸び、混雑している庭になってきているので庭の樹木の整理、断捨離も考えなくては、と地面を暗くしてきている樹木の剪定を素人技と道具でしてみるが脚立に立つことも足元がおぼつかなくなってきて、長枝用の鋸で届く範囲の枝を払うも天辺のほうの太陽を向いた勢いのある枝は始末ができない。あの樹は花がいいんだ、何時かは咲くさ、と期待した樹は今も期待を裏切っているし、珍しい樹だ、とかって植えたものの他の樹勢に負けて元気のない様子で、いじけた樹もある。
 まづは断捨離!とばかりに植えて以来一度も白の美しい花を咲かせたこともない木蓮を伐採した。ホワイトガーデンにする、とかいう理想を描いたその樹だったのだが樹ばかりが成長し細枝には蕾が付かない。それからソヨゴという樹も気に入りのもので金木犀の隣に移植した、というのは前に住んでいたところからいい場所に植えたのだがあの小さな赤い実がなかなかつかない。三本の根立ちした幹を二本にしたがちょっと遠慮がちに実を付けるだけで理想の樹とはなっていないので背丈を詰めることにした。
 常緑樹のクロガネモチも伸び放題だった枝を払った昨年の結果か今年は真っ赤な小さな実をずっしりと一杯つけて素晴らしいのだがその隣の低木には日陰となってしまっているので脚立に乗ってバッサリと実の沢山ついた太い枝をエイッ!とばかりに間引いた・・・、また中木の何本かは不格好な間引きと剪定を行ったのだが、あとは夏椿や柘榴などは落葉してからやるか、と腕が腰が肩が疲れてしまった。払った枝をゴミ化するために剪定はさみで細かく刻みもしなければならないのだ。
 その作業を一先ず終えたことにしたのだが、なんと時季外れの花が咲いているのに気が付いた。本来ならば初夏あたりに花を付ける「常盤マンサク」の白花が細枝に沢山花を付けている。今年の天候の不順さが狂わしたのか、それとも前の剪定時期が早かったか、あるいは遅かったのかその樹の暦を狂わしてしまったのだ。色違いのピンク色の常盤マンサクも木斛の下に植えておいたのだがこちらは期待の花を咲かすことなく数年をそこで過ごしたあと、咲かぬなら、と伐採した記憶がある。白のその花はその次第を見ていたのかそうはさせじ、とばかりに頑張っている。
 一眺めしてももっと大胆に枝払いをして風通しをよくし、陽が差すようにし、天辺の丈を低くしないと低木がみづから枯れてしまうことになるし、花もつけない、実もつけない、という事になると更に伐採をしなければならないなあ、という候補もある。長枝用鋸と10段の脚立ではすっきりと断捨離はできないし、体がふらつく・・・。好きで集めた様々な樹木も狭い庭では窮屈だと言っているようだ、選別しなければならない。庭木ばかりではないなあ、これも終活の一つなのだと呼子の名物‟イカ焼売”のような形のトキワマンサクを見ながら、秋の日和に思っている。

*常盤マンサク・白花

待ったなしである。 





 勤め人時代に会うたびに上司から待ったなしだ!と懸案の問題・課題への対応について問い詰められたことがある。そんなに簡単なもんじゃない、と心の中では思いつつ決算期という繰り越されぬ時期を念頭にこちらを追い詰めてくるのだ。偶に夢にも見る何十年も前のその問い詰めシーンである。
 最近の新聞記事などで見る様々な年間定例の行事には必ず「平成の最後」の、という一言が付いてきたのはその時代があと半年で終るというカウントダウン的な表現である。‟平成の最後の行幸”である、とか‟平成の最後の年賀状”であるとか、11月3日は平成の最後の勲章授与式が、とか12月23日は平成の天皇の平成での最後の誕生日とか表現される、何にでもそれを慣用句のごとくに付ける。来年になれば代替わりの様々な国家的な式次第の、たとえば新しい年号の予告時期などが言われ始めていて関連する各部門のスケジュール管理も大変である。その平成の時代の最後、といわれると平成の天皇とその後を受ける現皇太子の周辺庁等の役所は何か時間に刻一刻と迫られるような、あと何日、と緊張感がじわじわと周囲から押し寄せてくるような状態にあるのではなかろうかと一般人のこちらは思うのだ。
 昭和から平成に変わったのは30年前で病気による崩御がその時代の切り替えであったが来年4月の代替わりは健康での代替わりで、なおかつ自らがそのような意思を表示して、それに沿って位の後継者はと明確に決められているその後継者に譲る、という新しい今上天皇からの生前譲位、代替わりである。突然の事態での代替わりではなくて平和な時代の平和な形での用意万端の代替わりであるから、明治以降の近代ではなかった生前譲位が今後もそのようなことが(前例となって)ありうる、という事だろうか、と真剣に思ったりする。
 今後、時間の経過とともにその退位の4月30日と即位の5月1日が近づくとともに世の様々な日程も我々の暮らしに少なからず影響するだろう事柄も待ったなしでその国家的な行事の中で回っていく事になる。平成世代、といわれる人々は30歳を年長に活躍する世代である。昭和時代の前半生まれの世代は定年を迎えて老境に入り、後半生まれの人たちは40歳、50歳の社会の中核、ベテランの世代である。平成時代生まれの平成世代は昭和時代のほぼ半分の年数で次の新しい時代を経験することとなり平成世代はその時には前世代と称されることになる。明治45年、大正15年、昭和64年、平成31年、そして新年号の時代へとつながる。
 毎度目にする「平成最後の・・・」という慣用句(「最後」の、という表現に引っかかるのだ)は過去の年号変更の期を知っているこちらにはなんだか変な感じ違和感があったが、その言い方に慣れていないのは昭和、を知っているからなのだろうか。新しく来年に即位する126代の天皇年号は1か月前には決定するそうだけどそれが長く続く平和な年号となることを願うのだ。どのような時代、となるのだろうか、世界の風潮はなんか風向きがそわそわと変わっている兆候が感じられるのだが、「平成」の文字のごとくの時代を引き継ぐ時代を表すような年号であってほしい、社会であってほしいと思っている。平成で最後だった、とならないように、しないように。
 

看板に偽りはない? 


ステーキファースト

 ○ファースト、△ファースト、□ファーストとか国民や都民・県民とか住民、つい先日まではお客様にとってとか言う耳さわりのよさそうななんか今更くすぐったいぞ、痒いぞ、もう古いぞと言いたくなる一時流行ったキャッチフレーズが今も溢れている。なんのことはないそう口に出す人にとって都合がよい、対象に阿った表現である場合が多い。
 つい先日、数か月前まではそこに「○○製麺所」という看板のうどん屋さんがあった場所を見ると、ああ流行り廃れの激しい飲食業界の現象か、と思ったのはそこに大きな看板を掲げた「ステーキ」店が開店していた。この場所より駅寄りの手前には熟成肉のステーキを売り物にしていた店ができたと思ったらすぐに代替わりをして今は牛かつの店になっているが、この牛肉を素材とした飲食店は手頃な価格のステーキを量り売りで立ち食いで食べさせるというチェーン店の人気が店を増やしている現象から見てもステーキの価格によっては需要があるのだろうか。一万円を超えるアメリカ発のステーキ店が‟上陸”とか言うニュースを偶に見かけるがそれは都心の富裕層の人達をターゲットにした場所とアメリカのNY発の、というブランド店ではなく廉価ステーキが売りの国内の企業によるチェーンというか多店舗化なのだろう。
 たしかに今や郊外のショッピングセンターにその国産のブランドの(牛肉はアメリカ産だったり、オーストラリア産だったり)チェーンが出店している。試しに住まう場所の近くのSCに出店をしていてグラム売りの部位ごとに値段の違うステーキをカウンターと座席のある店に行ったことがあるのだが安く食べてもらうにはそれなりのコストをセーブしなければ、という皿の上の料理であり、室内の設えもエコノミーな環境である。‟牛肉” をステーキで安く、という狙いに来た一見の客はリピートするのだろうか、初めは安いなあ、と思いつつなんか物足りないな、という感想が二度目への利用動機となるだろうか、という感じがしたものだが、都内の主要幹線道路の交差点にできたその看板に「ファースト」だとか「Nンバーワン」だとかでかでかと書いた店名?の下にある写真看板に引き寄せられて(いつもの癖で新しい店が出ると寄ってみたくなる)リブアイロール・200グラム(メキシコ産)という看板に食らいついたのだ。なにがファーストなんだろうか、何がNO.1なのだろうか、と期待を抱きながら。
 あの郊外にも出店してきたチェーンよりはチョット気の利いた木調の雰囲気の店内である。テラス席もあるけれどそっちは埃っぽい場所ゆえにカウンターに陣取る。 50グラムからの量り売りで一グラム単位の価格表示である(ちなみに注文したのは1グラム 6.8円)。ちょっと「メキシコ産」?という初体験の肉牛産地であるが目の前に短冊形にカットされ焼網目の細い肉がレア状態に近く出てきた。ペレット(焼いた丸い鉄の・・・アイスホッケーのあの・・・)でお好みの焼きにしてくれ、という。ナイフを入れたがまだ中はレアであるからペレットの上でひっくり返してみたりして端の脂部分と筋を切り外して赤身の部分を噛むと肉厚ゆえの食いごたえはあるがなんだか肉の旨さがない、備え付けのオニオンソースを掛けて食べ噛むのだが、この短冊カットは多分、一枚の肉厚の肉を半分にカットしたに違いなく(だから細い短冊なのだ)、一枚肉の上の脂部分がこちらの鉄皿に乗っている、という事になる。このカットは肉厚に見せるが脂をとると200グラムにならないぞ(けち臭いことを言うようだが)、そしてメキシコ産はいくら米国に近いとはいえ、アンガスのような柔らかさと肉の旨さにははるか遠いなあ、というのが実感である。
 そして付け合わせにクレソン一枝が色付けのために遠慮勝ちに乗り、レモンの1/8カットが添えられはしていたが皿の上は寂しい。サラダは別売りである。トマト味のオニオンスープが小さなカップでつき、ライスは美味しかった。結局,1,550円(税込み)のランチであったが満足だ、という事にはならなかった、チープだなあ、安く出せればいいそれが一番かも。あの‟熟成肉”店にも牛かつのみせにもいってはいない。‟F-スト”、だの‟NO.ワン”だの「看板」は何を客にアッピールしたいのかは一度の利用では実感が湧かなかった、分からなかった。