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読み返したところ 



 前々回か、ブログを書いていて関連する箇所の確認のためにある作家の日記を読んでいて、面白くなって先まで読み続けていた。この作家の日記は文庫本で2冊になっていて、「H鬼園日記帖」が戦前の日記でそれに続く戦後の日記が「H鬼園戦後日記」として出版されている。作家がペンネームを「H鬼園」と「U田H閒」という号を用いているのだが日記はこちらの鬼号を使っている。
 大体、文学者の日記を読むときの癖で「戦後」が記載されている年月日でこちらの誕生日はどのような過ごし方をしていたか、世相をどのように記載しているかページをめくる。その年月日は1946年8月4日である。敗戦後二年目の年であるからまだ前年までの徹底的に焼き尽くされ破壊された都市や上陸してきた敵軍によって攻撃された土地、原爆投下されて敗戦、なった翌年である。   父親となったのは戦地の中国からから引き揚げてきて結婚をした、翌年である。まずその月日を読んだのだが、その日記には世の中は格別何も大きな事柄は記載されていなかった、この作家の日記では平時の普通の多くの人の暮らしと大きく変わってはいないような記載である。「天気は曇午後糠雨、煙草のピース1ケ10円、生まれて初めて胡瓜をみそ汁に入れた・・・夕、麦酒3本のむ。夜、日記記入少少。」という風な底だけ読めば戦後二年目とは思えない記述である。
 そんなところを読みながら日にちをめくっていくと9月21日のところで「あれっ」前に読んだときには気づかなかったなあ、この記述はという条に目が留まった。「・・・十月三日のS訪根自子の帰朝第一回演奏会の切符を明日朝日新聞で売り出すので二枚買っておいて貰うよう頼んだ。一枚二十五円也。大井を誘って同道するつもりなり。」とある。
 前回読んだときに格別関心を持った日にちではなかった、ということは三年か四年前この「S訪根自子」の伝記を書いた音楽評論家からその著書をいただき、その伝記の主人公である、ヴァイオリニストの名を初めて知り、興味をもってその著書が出版されたときにCDを買い求めて演奏を聴いたことがあったことをその日記で思い出した。
 あの「百K園」先生がクラシックが好きだ、ということは「サラサーテの盤」という幻想的な短文を書いていることからも、そして仲の良かった少年時代の友人と当時はハイカラな趣味であるクラシック・レコードを聴いた、と追う風な文章を覚えている。でもあの超技巧的な演奏を少女時代から評価されて著名な音楽家に師事をして、ベルギーに招かれて留学し、パリに、ベルリンにと演奏を続け、著名な指揮者に評価されベルリンフィルで共演した、あのナチス時代にその宣伝相を務めていた「Gッペルス」から直々に名器「ストラディバリウス」を寄贈されたと、日独協定を結んだ時の関係からか、そういう美貌の少女ヴァイオリニストだ、というその伝説の女性の演奏会を聴いていた、ということに驚いた。
 さらに、帰朝演奏会の当日、十月三日の日記には「・・・大井と歩いて帝国劇場の諏W根自子帰朝第一回の演奏会に行った。最初のタルチー二の悪魔のトリオを聞いて涙しきり流れたり。」と感動した演奏を書いている。この曲はどのような曲なのかは聞いたことがない。先生が口をへの字に」曲げながら黒縁の丸眼鏡をはずしてハンカチで感涙を拭った(だろう)、というその曲を何かの機会にCDで聞いてみたい。さらに、十二月十二日。「…午、平山誘いに来、一緒に乗合自動車にて有楽町迄乗り、新しく出来た東京日日の講堂にて諏W根自子、井G基成のソナタを聴く。会場にて中村と落ち合う。番組は、「バハ」、「ブラームス」、「ベートホーヴェン」にて「ベートホーヴェン」はクロイツエルソナタ也。」とあるからよほどこのヴァイオリニストの演奏の前評判は高かったのだろうし、作家も入れ込んでいたのだろう。ちなみに、この演奏会に同行したのは作家の作品によく登場する国鉄の「Hマラヤ氏、こと「平山氏」であり鉄道作家として著名になった「N村武志」のことだろう。いい演奏会に誘われてる、と思うがその演奏を聴いて素晴らしかっただろう、と問われてHマラヤ氏は「はぁ」と眠そうな目を擦ったかもしれないが、いいチケットを続けて手に入れたものだ、と思う。
 このヴァイオリニストは演奏会当時は中学生でのリサイタルである。三歳でその音楽感覚を認められてロシアから日本に帰化した白系ロシア人「小野アンナ」(小野ヨーコの叔母に当たる)に師事し、1930年にはあの「ジンバリスト」に紹介されて天才少女として1932年(12歳である)に初リサイタルを。そして外務省の後援でベルギーに、「クナッパーツブッシュ」の指揮する「ベルリン・フィル」で・・・、と素晴らしい演奏を重ねている。そんな天才美少女にドイツ・ヒットラーの宣伝相「Gッペルス」からストラディヴァリウスのバイオリンをプレゼントされる、というこの辺は有名な話である。そしてこの話が複雑な事柄となっていく。1960年以降は第一線から退き主婦として暮らしていたが1981年に「バッハの無伴奏ヴァイオリン」のアルバムを出した。そして1985年に演奏活動を止め、2012年に亡くなっている。バイオリンのプレゼントが政治的な背景を持った(プレゼント話の仲介をした駐・ドイツ大使・"O島”は極東裁判でA級戦犯、となった・・・後に釈放されたが)、とか、ナチスが市民から奪った著名楽器をプレゼントされたとか、本物の「ストラディ」かどうか、とか・・・。
 この作家の日記にそのほかのクラシック演奏会に出かけた、とかいう記載はない。この日記に出てくる演奏曲「ベートーベンのヴァイオリンソナタ第9番・イ長調・クロイツェル」の入っているCDを持っている。1986年の4月から5月にかけてスタジオ録音である。第三楽章のテンポのいい楽しい演奏は、多分作家もウキウキしながら聞いたであろう。"おい、中村、平山、楽しいね”と珍しく一言発したに違いない。このCDのタイトルは『永遠なれS訪根自子』とあり、1981年撮影されたヴァイオリンを構えたポーズでの“美貌婦人”はシルバーグレイの髪である。CDケースの裏の白黒写真の"美少女”は確かに美しい。百K園先生はこの美少女にぞっこんだったかもしれない。
 もう一度、美少女のブロマイドを眺めつつ聴こう。有名人の「日記」を読みながらこのような「いい話」にはなかなか出会えないものだ。
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懐かしいなあ 

金宝樹

 都心の美術館でアマチュア団体の作品を定期的に展示する展覧会があって、かっての仕事仲間が出展しているという案内で作品の鑑賞に出かけてみた。その作品は大きな(90×90)ミックス・メディアとかいう手法のコラージュで、彼の最近手掛ける独自の作品であった。早速、メールで“見たよ、大作じゃないか”、と一応は感想を述べたのだが、コラージュしている写真や雑誌の切り抜きなどが沢山貼り付けられていて、鑑賞者のこちらには作品の意図と焦点が定まらなかったのだが・・・。画面にいっぱい貼り付け過ぎるのだ、ベースとなっている地の色がもう少しあってもよい、変化がなくて・・・と感想を浮かべながら会場を後にした。
 会場を出て道路の向こうに渡ろうとした角のビルの入り口脇に「あっ、これは懐かしい」と目にした樹木のそのエキゾチックな花にひかれて暫し眺めた。あの赤い細い糸がのような花が束ねられ枝それぞれにその赤糸・束・状の花がいっぱいついている。
 「ボトル・ブラシ」、という名の樹木である。別名、「金宝樹」といって以前、購入した時にはこの名が札についていた、いかにも縁起がよさそうな名前であるが、通称はその名の通りワイン・ボトルなどの内側を洗う、赤色の毛のブラシ、という風な名の由来だろうか。昔ならば椰子の樹幹の表面の茶色の繊維を束子のように長く束ねた瓶ブラシ、といえばいいか。
 この時期の花であったか、と眺めて感慨にふけるのはこの亜熱帯などの異国情緒を醸す樹木は我が30坪程度のささやかな郊外・新築・一戸建て住宅をやっと建てて、その狭い庭に植えたのだ。たしか、アメリカ西海岸でこの樹が海岸公園にづらっと並んで燃えるような街路樹の景色に感動したことが記憶にあって、新しく建てた自宅の近くのスーパーの駐車場で開催していた園芸市で幼木を目にして早速購入した。40年近く前の話である。
 30坪の敷地の住宅、その庭といえば云えるか窮屈で庭木を植えこむようなスペースは限られてくる。私道に沿って幼木をいくつか植えこんだのだが、いずれ成長すればどうなる、なんてことは当時は予想もせづ、こちらの都合の良い高さ、枝の張りにはならない筈であるが、植えた。
 その時に植えたその樹が意外と日当たりがよい場所であったか、土が合ったのかよく成長し、赤いブラシ状の花をたくさんつけて、道行く人もきっと「いい花だ、立派だ」と思ったに違いない、自慢の樹木であった。ごわごわした細い葉は落葉もせずに日本に適応したのか、日本向けに改良されたのかその後あちこちで目にする(気にしていると)こともあったのだが、いつだったか、大雪が降ってこの樹木の枝がぽっきりと折れてしまって、幹も割れてしまってやがて、枯れてしまった。
 そしてその狭い地には当時人気の樹木であったピンク色の花の「花水木」を植えたのだが、自分の領地は広くなければならない、というよう具合でまもなく外国原産のこの木も枯らしてしまった。よく樹木の素性を考えずに好きだから、と植え込むとこうなる、という経験をそこでしたものだ。大木になる「タイサンボク」、「百日紅」なども玄関わきに植えたのだが敷地は広がらないが樹木は成長し、やがて隣の樹木と競り合ってどちらか、あるいはいずれもが敗退、ということになったのだ。
 低木でも同じであった。実家から株分けして植えた「米桜」、近くの米軍キャンプの撤退した後の将校住宅に植わっていたものを移植した「金雀枝」は今の住宅に掘り上げて移植したのだが、枯らしてしまった。よく考えずに隙間があればどこにでも植えこむという性分は反省の後がない。
 ブラシの樹を見てまたほしいなあ、と一瞬頭の中をぐるぐるしたが、同じ経験になることは目に見えている。今年の春、夏の庭の樹木を見て、残念だったな、と思ったばかりである。あちこちで見かける珍種の樹木を欲しがる。そして樹木センターなどで、インターネットで調べて、いいな、と思ってもあと何年後に花をつけるか、あるいは新人りを既存のものがハジイテしまうか、調和をして華やかな庭になる、ということはあくまでも夢のごとくで、前より少しばかり広くなった庭でも、あの木、この木が日当たりの空間と地中の根の張りのせめぎ合いを今も起こしている状況が生まれているのは想像できる。
 あの燃えるような赤いブラシ・・・この美術館にまた来た時には、頑張っているな、と声をかけることで我慢するとしよう。きっとあのビルのオーナーは何かのこだわりがあって、この樹をこのビルのシンボルツリーにしたに違いない。かって30坪のやっと手に入れた新築一戸建て・庭付き(といえるか)住宅の初代・シンボルツリーがこの樹だったなあ。和名の「金宝樹」、の金も宝にも縁遠かった。美術館前のあのビルのオーナーさんはきっと財産持ちになれそうな樹名にあやかってますます成長しているかもしれない。

口は悪いが・・・。 

内田百閒文庫
 
 独特の言い回しや態度、性格の几帳面さ、潔癖さ、信条の硬さ、そして文章の一言一言の言葉を大事にする、言葉遣いははっきりしている。毎日の習慣である酒は欠かせない(アル中であったか)生活基調が崩れない、で食卓にそれが無いとなると途端に不機嫌になる。借金を(本人は錬金術という)してでも酒の購入費をどうにかして工面する、妻には探させ知り合いには酒はないか、と調達を依頼をする。飲んで家族が困窮になろうがそんなことは別だ、とお構いない、でも憎めない。  
 そんな作家の書く日記や紀行文、といってもただ汽車に乗って、食堂車に“連れ”と陣取ってビールを飲み続けているのがご機嫌で、あっちこっちの名所旧跡を尋ね、珍味や美味しいものを堪能し、楽しい宴席を楽しむ、ということは積極的にはせず、ただ汽車に乗って“ぼぉ~と”あちらこちらを回るのが最高なのだ、その汽車旅の記録などが出版されて印税が転げ込む、さあ借金の返済だ、と云う間もなく酒代になって、借金は相変わらず消せない。
 この旅に同伴し紀行文、日記にも頻りに登場する秘書的、執事的な役割の読者にとっては有名人の「Hマラヤ山系」なる人物がいてこそ汽車の旅を我儘に楽しむことができる。この汽車旅に欠かせない「H山氏」、を作家はいつからかカタカナ文字を入れ替えて「Hラヤ山系」と書きものの中で呼ぶようになったのはなぜなのか、いつからなのかはまだ書物を読み足りていない。
 多分、愛称としてほかの人たちにもこの作家独特の別称を付けているから深い意味はこの場合はなさそうである。彼に親しさが持てるようになる前には他人行儀の「貴君」とか「H山氏」とか呼んでいる。気難しそうな印象でとぼけた作風の作家に終生付き合うようになった切っ掛けは、日本国有鉄道のまだ若かった職員だったH山氏がその気難しそうな作家への内部機関誌の原稿依頼が切っ掛けとなったようだ。
 この「Hマラヤ山系」こと「H山三郎」氏が作家との長いお付き合いを『実歴・阿房列車先生』(単行本では1965年出版、文庫本では1983年刊行)という著書で紹介していて、その文庫本が2018年9月に再版されそれを面白そうだ、と手にして初めて読んでみた。  こちらの好きな作家の代表的な“乗り鉄”エッセイのタイトル『特別阿房列車』もじって書いた、その列車の旅の欠かせない居なければその紀行文の興味が半減する、いやそれ以上に重要な同行者の作品である。作家の家族以外では最も時間的にも距離的にも近いところにいた、「裏の裏」までの事情を知っている筈の秘書というか執事というか国鉄の職員でありながら本当の上司に認められて、暗黙の指示でその傍にいた秘書が書いた作家の実像を書いたものだ。昔読んだ文庫本『第一阿房列車』を脇に置きながら読んでみた。冒頭の『特別阿房列車』の東京から大阪へのバージョン“特別阿房列車始発・特急・はと”の発車、である。
 作家が多くの小説以外の作品の中で書いている登場人物はなんといっても「Hマラヤ」氏が頻度も最も多く、読者はその人物像を勝手に作家が描いた言葉で想像するが、書かれた本人、脇役が主人となる著書の中ではその人物像はどのようなモノか、という興味である。作家の家庭には細かく入り込まずに(危険ゾーンかも知れず)あえて“阿房列車同乗者”としての立場をわきまえて、その作家との絶妙なふんわりとした距離感を保つように取りつつ先生のプライドを大事にしながら世話を焼く。酒飲みのお相手をする。目的のない旅の段取りをする。話し相手になって相槌だけは「はあ」ときちっと打つ。 何を言っているかを忖度して今でいう「パシリ」役を適当に果たす。作家にとって近くに居なくては困る連れ、である。国鉄職員であるから都合よく時刻表を手に切符を手配し、宿を探し、下車駅の駅長や国鉄職員仲間を訪ねる、作者には持病の「結滞」があり、酒が好きで、適度な話し相手が居なくては、となると一人旅は不安である。先生はこの連れを「国有鉄道にHマラヤ山系と呼ぶ職員がいて年来の入魂である。年は若いし邪魔にもならぬから、といっては失礼であるが、彼に同行を願おうかと思う」とまず、随分な紹介の仕方である。こういう言い回しが作家先生の表現手法である。
 先生にとっても、それをわきまえている風に控える山系君は重宝であるし、ある生活の一部領域では身内のようであり、部下のようであり、エッセイの中では散々な表現をするも先生からすれば親しさを込めた悪口でも愛称の名付けでもあるのだ。最初の出会いは“実歴・・”の最初に書いている「貴君は汽車の旅行が好きかね」、とまだ関係が薄いときの「貴君」という呼び方で「Hマラヤ・・」はまだ登場しない。「国鉄職員に向かって,汽車旅行を好むやと問われても、そう簡単には応えられない」、と食事の席であり余計なことをいうことは控えていた。さて、いよいよである「貴君、僕は大阪に行って来ようと思う」と先生はいう。「なにか、用事でもできたのですか。大阪にー。」「いや、なんにも用事なンか有りやしない。」なにかいいかけるのに先生は面倒くさそうに、「分からない人だねえ、貴君は。汽車に乗りたいから、大阪へ行くんだよ」と言われたこの場面があの名随筆『特別阿房列車』(1950年執筆)の名場面である。「私の言いたいことがわからないのか」、とここから始まり、である。
 先生、こと「U田百K」(別名・百鬼園、H閒、本名・内田栄造)の文学作品の鑑賞、評論を別にしての作家の人間像を書かせたらたぶん、この人「Hマラヤ」氏が一番知っているに違いない、そして先生にその汽車旅ではある時期から一番信頼をされていたに違いない人物である。作家の家庭、とりわけ家族的な環境の仔細は知っていても身をわきまえてそれは書かない。運輸省に入省して、機関紙編集の担当になり「百K園」に随行し師事し30年、先生が81歳で亡くなる昭和46年までずっと本人が54歳までお付き合いをした。その後「全集」刊行などの編集に携わった。青年期には先生に学費を出してもらい国鉄に籍を置きながら大学の夜間部に在籍していた、というから先生もしかめっ面とちょっとした棘のある言葉とは裏腹に人間味のある作家であったのだ。
 先生の一番に気云った愛称はもちろん使用頻度の高い「Hマラヤ山系」略して「Hマラヤ君」ときに「Hマヤラ」ともなるのだが、ある時にはひどい表記も目にする。やれ「朦朧軒」だのそのバージョンで少しばかり気を使った「孟浪」などという表記もあるが、それはHマラヤ山系以外のも一つの表記で、常に先生の問いかけに捉えどころのない「はあ」という気のない返事をしたりするからであったろう。この意図した対応術はH山氏の心得の一つ処世術、である。深く入り込まない、論議しない、しかし言わんとすることは心得る、ということである。その間合いは先生も理解し、それでいいのだ、と。酒が入るとそうはいかない、先生は機嫌よくあればあるだけビールを飲む。しかしその相手に飲み込まれないように程よく飲む。そういえば先生からお付き合いの「訓示」を垂れられた。「阿房列車」に「長年、貴君とお酒を飲んで,どの位飲めばどうなるかと云う加減はお互いによく知っている。相戒めて、旅先でしくじることのないようにしましょう。・・・」いいですか、と念押しをされ山系は浮かぬ顔で、「はあ」といったきり、黙っている。」という箇所がある。
 いよいよ「A房列車」特急・はと、が大阪に出発する冒頭の文章で、「ヒマラヤ山系」の手にするボストンバックにケチをつける場面である。最初からパンチを一発である。「山系がやってきた。泥坊のような顔をしている。きれのボストンの手の所がしゃしゃくれて、糸がほつれて、千切れそうになったのをさげている」・・・「それは随分きたならしいね」・・・、「髭ぐらい剃ってきたらよさそうなものだ」などといろんなケチ、難癖を初っ端からつける。そして酒飲みの教訓である。
 また、先生は列車のステップ(一等車に乗る)に古くて破けた革靴につぎを当てた靴の底をこすりつけたのだが(人のことには細かなケチをつけるのだが)、「・・・山系は南瓜を踏み潰したような貧弱な恰好の靴を・・・」という。また先生が「何時だろう」というので「山系が洋服の左の袖口をたくし上げた。借り物の腕時計の鎖の環がゆる過ぎるので、手頸がとまらないから、奥の方の、肘の近くに嵌めているのである」と変なところを細かく観察している。まったく、弱点ばかりをよく探し、面白く描写する。阿B列車の中ではバナナ売りが行き来する。先生はそれを眺め、売り子の姿を目で追っている。(気が利かないなあ)という風で「おい、バナナが美味しそうだな」、とは言えないのだ。「彼の意向を聞いたところで、要領を得たためしがないから省略してほっておく」と記している。
 ついに先生、『「いつもバナナを持っているね」私がそういうと「そうですね」と答えて、それでお仕舞である』。全く気が利かない“朦朧軒”、いや“山系”だ、と先生が口をへの字にして臍を曲げている風が目に浮かぶ。そっと目を外に向けると東海道の遠州灘あたり、この辺は岡山から東海道を幾度となく往復しているから見当がつく、と自慢話をしている。「車室でお行儀よくなんにも食べないのは、一つは体裁もあるけど、もっと大事な事は、後でお酒をうまく飲もうという算段である」といいながら我慢できなくなって食堂車に山系といって飲み始める。始まるときりがなく、列車に積んであるビールがなくなるまで飲み続けるのだ。麦酒飲み放題、列車である。ちょうど列車の揺れ具合が酔い具合である。それに素直に付き合う、なんと揶揄われても私の上司、師匠である。
 人気続編の『第二阿房列車』、『第三阿房列車』に描かれている列車での旅の段取りと手配、同行はもちろん、出版社への連絡係、旅行社の代理店、銀行にお金を下ろしに、ビールをはじめとして食料の調達(主に酒類)係、“別宅”への連絡係と口が堅い、個人情報を漏らさぬ大事な秘書、である。
 山系氏の前任には1921年から10年ほど同じような役割の書生で大学生「内山」氏(ペンネーム、というか先生が名付けた「U山呆人」)が卒業してからも家族と同居していたのだが、その彼は作家の機嫌、逆鱗?に触れて突然解任された、という読者にとっては興味のある“隠し事”が作家の遺族の対談集の中に出てくる。その初代秘書方は何も記録を残していないようで先生が本気で怒った出入り禁止事件の事情・背景を知りたい、と思うのだが。
 作家の年表によるとU山氏が1925年に家族と別居した時期は作家が長男を亡くしており、仕事部屋として他所に家を借りて家を出た。そして1929年には花柳界に身を置いている愛人とその妹と同居するようになっていた。確かに4人の幼い子供がいて仕事にならない、と仕事場をほかに求めたのだが、身の回りの世話をする人も欲しくなり「こい」さんという女性と一緒に住むようになった。本宅と妾宅の間を行き来していた書生・U山氏はある時からばったりと「実家の母」(作家の本宅と妻のところへ)のところへこなくなってしまったと娘さんが対談の中で語っている。「誰かに中傷されたんでしょうか」と思って、娘さんが後年、どうして「内山さんが来られないの、と父である作家に問うと厳しい顔で「その話はするな」といったと。その辺の諸事情は詳しかったはずである。内山氏は筆が立つ人で本人もエッセイを書いていた、というからその著作の内容などに絡んだ事柄が師匠である先生の感情を荒立てたのかもしれない、と憶測する。
 本妻の「清子」さん(あの熱烈な恋文を送り届けた友人の妹)は1964年に亡くなり翌年「こい」さんを入籍させている。この書生の記録した本妻と後妻との関係はどうであったかいろんな絡みがあるはずであるがそれは目に触れていない。「実歴・・・」で「U田H閒」の後半生を同伴したヒマラヤ氏の著書で知ることができたが、前半の部分も知りたい、と思うが主人もメッセンジャー「U山呆人」もいなくなった今は何があったのか想像するしかない。「実歴・「冥土」の前後」という著書でも密かに刊行すれば面白かったのに。

徹底し、再び起きないように・・・ 

 



何かことが起きるとその対応策を問われる。再発防止のためにマニュアルを策定し再教育をし徹底させて二度とこのようなことが起きないようにいたします、と不祥事が起きるたびに組織の長が頭を下げる風景が目につく。この場面さえもが「危機管理マニュアル」という虎の巻に事細かに記載されている。「危機管理コンサルタント」など弁護士の資格保有者が引っ張りだこである。何も企業や役所に関わらず、その危機に備えてマニュアルを策定することが今や必須である。
 企業などでは法令順守として法律や企業内行動規範、作業手順・ルールなどの周知徹底が諄く言われる。いわゆるそれらに違反しないようにコンプライアンスがうるさく言われ、利益追求の前に必要とされるこれらの価値観を共有すべく社内研修で行い、現場においてはその価値観を前提とした作業の効率化と標準化のためにその手順書は時代の変化に伴って常に改訂され、高度化されてステークホルダーの期待に添えるように躾けられる。
 そのマニュアルを今度制定した、というニュースがあったのは選挙を控えた与党の国会議員向けのマニュアルだ、というのだ。 最近、とんでもない発言や行動が目立ってきて、国民の信頼を失ってきている、という選挙対策用のマニュアルである。それを聞いて国会議員がマニュアルを読め?守れ?って笑ってしまうのだ。選挙対策本部の誰ががそのように発案し、そうだな必要だな、と受けたのか。『「失言」や「誤解」を防ぐには』、と題されたそれは失言、失態、などによって最近、議員辞職が幾度となくあり、担当職務を外される、不適切な発言がもとでSNSで炎上、というような事態が生まれる。その露見し炎上した一部の事柄はリスクの法則から言えばヒヤリハットは極一部であってその露出した底辺には多くの潜在的な危機が存在する、という法則「ハインリッヒの法則」である。ちょっとした兆候が実は重大なリスクを内包する、ということから言えば、様々な失言、失態は起きているのだが、その体質自体に原因があるとしか思えないのだ。あのことにはこう対応すること、誘導尋問にはくれぐれも気を付けること、など逐一細かくそのあたりを記載して国会議員に配布するというのだ。気を付けろ、という。しかしそのような発言や失態を生む土壌があるからその土壌の土質がおかしくなっているから、弥縫策にしかすぎないのだ、と想像する。そのマニュアルには「マスコミには気を付けろ、報道の一部が切り取られ」「身内の会合や酒席で盛り上がるようなトークテーマには要注意、だの「説明を端折ったり言葉遣いが荒くなったりしないように」「タイトルに使われやすい強めのワード。に注意」、とマスコミに十分注意しろ、ということか。「歴史認識」「ジェンダー性差問題編所個人的見解」「政治信条に関する個人的見解」「事故や災害に関し配慮に欠ける発言」「病気や老いに関する発言」と弱者に対する細かな注意であったり「わかりやすくウケも狙える雑談口調の表現」などそれぞれの注意項目に当てはまる国会議員、とりわけ大臣クラスの議員名が浮かぶ。個人的に口頭でその旨を伝えにくい大物議員にこのマニュアルでそれとなく注意しているのだ。難しい熟語や漢字にはフリガナを振ったり、傍線を引いたり、赤で囲ったりした方がいいのでは、とおもう。
 この対象議員の多くはどこかの国の大統領みたいにSNSで始終軽はずみな受けを狙った発信をしていることはないだろうが、PCやスマホでの伝達は読めないので紙での配布の伝達は読まれる工夫が必要かもしれない。秘書に「なんて書いてあるんだよ、読んでくれよ、俺への注意みたいじゃないか!」。そもそも政府は統治する機能の「ガバメント」といわれる。その政府の「ガバナンス」が問われている、のは皮肉な現象である。
 5月1日から新しい年号の時代が始まった。4月30日に「退位礼正殿の儀」での天皇・皇后にたいして首相が皇族、国会の重職、各界の代表者など出席した場で「国民代表の辞」を読み上げた。「・・・天皇・皇后両陛下には末永く健やかであらせられますことを願って いません」という言葉が発せられたのだ。事前に放映する各社にはその「辞」は配布されているからその挨拶を読み上げるテロップは「・・・健やかであらせられますことを願ってやみません」と出ているが言葉とテロップがまるきり正反対のことである。読み上げている書には「…あらせられますことを願って已みません」と会ったらしい。つまり「巳」の文字を読めなく手、一呼吸が入って「・・・いません」となってしまった、大失言,新世紀の始まりの大失言である。
 この失言にたいしてマスコミは何も問わない、訂正もしない、こちら(視聴者)の聞き違いではないか、という風を装っている。言い訳のしようもないほどの最大の失言大失態である。素人考えでは事前に原稿が何度も役人によって推敲され、読み合わせる、確認を幾度もする、という慎重にも慎重を重ねるべ必要がある大切な挨拶文、である。仕上げた役人は出来上がった「辞」の原稿を首相の前で読み上げたはず、と思うのだが、“いや、読んでおくよ、ありがとさん”、という風な感じでの手渡しだったのだろうか。官僚は心の中でこの文字は大丈夫だ、複雑な読み方、漢字言葉はできるだけ避けてわかりやすい(容易に読める)文字を連ねよう、一方、原稿を見て「巳」はなんて読むのだろう、と不安を持たなかったのは慎重さを欠き、事の重大さを認識していない、まあ大丈夫だ、という心持ではなかったか。
 一強、という状態には安易さ、軽さ、が生まれる。その雰囲気の中で多くご国会議員に隙が生まれ、一強だからこそなんでもできる、許される、自信過剰という雰囲気が生まれそれが徐々にトップから下部までの体質となっていくのだ。失言があっても世評が厳しいことを、意図的に無視をし、マスコミに脅しをかけ、記者会見で「誤解を受けたとしたら、取り消しさせていただきます」と平気に目の前の国民が誤解するのがおかしい、と言外に言う。「何が誤解だ、そっちがおかしいのだろう」と国民が思うような会見が行われる。天皇の前で「国民代表の辞」を読むというシーンでの緊張感が全く欠けている、としか言いようがないのだ、と思うのは国民の多くなのだ。「言い間違い」「読み間違い」が絶対にあってはならない表明でありこの紀に一度しかない重大な場である。
 そのあとの選挙対策マニュアルの制定「失言対策」編は党首でもある首相が大失言をしてしまった。発言には慎重には慎重を、という箇条書きになんと書き加えるのか、おかしいと思った文字は”聞くも一時の恥、聞かぬは一生の…”,云々(うんぬん)と言われるではないか、座右には国語辞書を置くべし、とでも書き添えた方が良いのでは。
 そういえば昨日のニュースで流れた会議の中で発言者の声では「ほっき」という言葉が出てきてテロップには「発揮」という文字が出て高齢者の活躍を期待する、という文脈の中で出てきた。発起人といい場合「ほっ」と読むが今回の場合は「はっ」ではないかなあ、失礼ながらこちらは難聴気味での聞き違いであったら訂正しお詫びいたします。それにしても国民を代表している国会議員の発言マニュアルって聞いただけで国民が恥ずかしい思いをする。国会議員の発言、行動を注視し見極めて選挙で選ぶ手引書、マニュアルを国民が持つ必要があるということか。
 

最初も最後も 

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 最近は満員電車、というと事故などで不通となって動き始めた電車で、かっての通勤地獄的な混雑、立錐の余地もない電車内ではストレスがたまり放題、それに次の停車駅では降りる者がいなくてさらに押し込まれて寿司詰め状態に詰め込まれる。溢れ出る額の汗を拭えず、いよいよぴったりついた他人の体温に触れるような感じの悪い互いが不快状況になる。そしてそれぞれの人の独特な体臭や、昨晩風呂に入っていない風に感ずる饐えたような臭い、男性の強めな整髪料の匂いはまだましで、朝食に食べた納豆、ネギ、焼き魚を食した後のハアハアと吐かれる臭い、退社後に居酒屋で一杯飲んだ赤ら顔のご機嫌の人たちの吐く刺身と日本酒の混じりあった口臭、首筋に当たる吐く息が歯周病による臭いだったりには閉口して、首を横に背けたり、鼻をつまむこともできない、身じろぎできない状態はまさに吐くも地獄、嗅ぐのも地獄の悪臭充満地獄電車であった。
 それ以来(というか、もともと納豆や酒類は口に合わなかったが)その悪臭の元となることを自主的に断ってきたし、漂う匂いが自らが悪臭の源となってはいないか、と臭いを探ってみるのだが自らは馴染んだそれには鈍感かもしれない、と防臭剤的な「オーデコロン」を控えめに使うようになってきていた。特別、香りの装いで格好をつけて主張するつもりもないが主体的な臭い過敏症的な対策である。
 その場合、何をどのように使えばよいか、と男性化粧品コーナーで小さなボトルのその液体を求めた。朝、両腕に一滴ずつ落として掌で伸ばす。たっぷりかけるような使い方はかえって周囲にイヤらしく感じられるかもしれない、と遠慮気味である。そしていつも行く床屋で勧められてヘアー・トニックもそのブランドに代えた。風呂上がりにこれで整髪するからオー・デ・コロンを使っている、という“ぼかし”にもなった。特に、夏場は汗の臭いが出るのではないか、他人のその嫌~な臭いをこちらからも発していないか、と不安になるから使用する、という状態である。
 このコロンをお洒落で使用した、という感覚は当時はなかった(筈)であるのだが、この香り、柑橘系のすっきりした香りが一寸目立ち過ぎではないか、と少し軽めの香りのものを使いたい、とスーツの胸の内側にスプレーでシュッシュと掛けるほかのブランドのオー・ド・トワレに切り替えた。爽やかで軽いものに、というつもりであり、いくつかのブランドのものをとっかえひっかえして使用したが、いつの間にか満員電車も人の体温が感じられるような密着したような世の中の状況がなくなり、会社でも冷房が効くようになり、アパート暮らし(今はマンション暮らしか)の独り者もシャワーを浴びるようになって「体育会系の部室」のような、蒸れた靴のような臭いもいつの間にかなくなってきたのだが、それにとってかわったのがお洒落のつもりで結構、主張する人たちがこれ見よがしにすれ違ったときにふわっと感じさせる匂いを身にまとってくる時代が出てきた。ファッション・ブランドのデザイナーの名前を付けた個性的な香りとその名称で高価な札を付けているものが一時あった。その世にいうバブル時代は過ぎて「うン?なんかいい匂いだな」という風な使用の仕方、主張しない抑制された匂いがマナーとなってきているようにも感ずる。個性を大げさに主張しない、不快さを感じさせない抑制的な匂いの装い、となってきたのではないだろうか。
 そういう時代になってきたのにも関わらず、人の集まるところで改めて「ぷんぷん」させる御仁もいまだにいる。服装もピシッと決めて、匂いもピシッと漂わせて、高価そうな赤ワインの香りを薄いグラスに鼻を寄せて味わっている?という風な人も場所によってはいるが、そういう人は電車には載ってこないか。
 それでもこちらはジャケットを着て出かけるときにはナフタリンの匂い消しのつもりで(気休め的な不安の解消でもある。聞こえないように“おやじ臭”消しじゃないの、と聞こえた気がする)シュッシュと袖の内側にシトラス系のトワレを吹き付けていく。ヘアトニックは無香料のものである。いくつかのボトルが並んでいる、みな中途半端なのころ方であるが、シンプルなボトルで透明な液体が使い切られるのを待っているが、残りは一生で使いきれない残量ではある。
 人生で初めて「オー・デ・コロン」の使い始めは40年近く前でクラシックなボトルのラベルにはブルーの鮮やかな地に金色のメダルがいくつも印刷されこのコロン会社のブランド名となっている「4◎11」と書かれた“ケルンの水”、である。久しぶりに腕に垂らしてみたが、結構今からすると薫り高い液体、である、瓶の中で熟成された40年物ヴィンテージか。でも発酵したり腐敗はしていなかった。庭に出ると柚子の白い小花が咲き、微かにその香りが鼻の先に届く季節になったのだ。

今年も忘れない。 

夏蝋梅

 毎年のことである。この季節に決まって咲く花をこちらは覚えている、忘れもせずに咲く花を見ては去年も咲いていたな、去年咲いていて今年は花をつけないのは忘れているからではなくて、寿命が来たから知らぬ時にさよならを言わずに枯れ去っていった樹木もいくつかある。
 ちょっと雨模様のような気配の庭先をぐるりと一回りする。家の正面にある「夏椿」の裾に「なんじゃもんじゃ」(正式に樹名をいえばヒトツバタゴ)が背丈が1メートルぐらいの小さな苗(矮生)ながらもいっぱい白い細く刻んだ花弁(例えればイカ焼売のイカをのような)を付けて“どんなもんじゃ”という風に咲いているし、「柚子」の樹の枝には棘がいっぱいの奥にほのかに香りを漂わす白い小さな花に蜜蜂などが寄って来ているがその花弁はすぐ散ってしまい、地面を白く賑わしている。今年は沢山の実を付けそうだ、という気がする。黒い揚羽蝶がひらひらといつもはするが今年はまだそのひらひらと舞う様子は見ていない、もっと後になるのか。    その隣の「山法師」は付ける花がいつも少なくて沢山の葉の中に二つ三つその白十字の花が見え隠れしている、多分背を伸ばす方に栄養が回ってしまって蕾をつける勢いが削がれているのかもしれない。
 庭の奥には「クロガネモチ」の隣に「サワフタギ」と言う、糸のように細い白い花弁のボンボンの形の花がたくさんついて例年になく賑やかである、多分花が終わったころに少し剪定をしたからだろうか。庭木として植栽されているところはその名のように少ないかもしれないのだが、この樹木の別名が“縁起でもない”と当座けられているのかもしれない、と想像する。「ルリノミウシゴロシ」とカタカナで表示されるが漢字に直すと「瑠璃の実牛殺し」という風になる。
 確かに秋口に「龍の髭」という庭を這わせるグランドカバーに使う草の根元に付ける実がこの瑠璃の実というのがぴったりである。その実を牛が食べてみたところいちころだったということか、気味の悪い名称である。もう一つ別称があって「錦織」(にしごり)とあるからこちらは立派な名前である。
 日当たりのよくない裏庭にもいろいろな樹木を植えてはみたが適地ではなく、密植気味で多くの樹木を枯らさせてしまった。日当たりがよくなくそさらにその中で一本、大きな常緑樹の木斛の樹勢がよく他を意地悪く排除する(日当たりを悪くしている)ように枝葉を茂らせているが剪定では手が届かない。「エゴノキ」、「令伏」、「雪柳」、「白花箱根空木」、「利休梅」などを残念ながら枯らしてしまっているし、低木で目立たぬ場所に植わっている「卯の花」は今年はどういう機嫌なのか鶯は鳴いたというのに花を付けなかった。犬走を東方向に進むと「夏蝋梅」という好きな樹木に沢山の花を付け始めた。昨年咲いた枝の先には枯れた実のような穂のような形が落ち忘れたかのようまだ付いている。大きな葉のこの「夏蝋梅」は春先にいち早く咲く黄色のあの「蝋梅」とは姿形、色、などは先月あたりに咲いた「黒花蝋梅」とも花が全く違うが「蝋梅」の一種なのだろう。花が蝋を溶かしたような具合ではないが遠慮気味、抑え気味というかほんのりと薄いピンクの優しい感じの花弁の真ん中に黄色な蕊を付けて次から次へと花を咲かせる。
 狭い庭を一回りしたが、今度は「夏椿」がそろそろ咲く番でほかの白系の花が咲き終わるころあいをじっと見計らっている。毎年のことではあるがこうやって忘れずに植えこんだ樹木少しつずらして咲き誇ってくれると、心が和んでくる。そして今年を迎えずに枯れた樹木の二代目はもう植えるつもりはない。こちらが忘れられるかもしれないかも、と大きくなった残っている樹木を見ながらそう思う。でも、よそ様の庭先を見ると、あれはなんという樹だろう、と眺めるも今から植えてもなあ・・・と眺めるだけにしよう、と。

*夏蝋梅

用がないとき 

 ご馳走帖

格段の用事がないとき、ほぼ毎日であるがそんな時に身の周りに置いてある文庫本などに手が出る、ということは結構手にしていることになる。何かを知りたくて、楽しみたくての積極的な読書ではない。ある好きな文筆家の日記だったり随筆集だったり、できるだけ長編でないものを“摘読”というような気ままに読むことが好きで暇つぶし、にちょうど良い。以前にも読んでいる短編等を読んでは、この作家の言い回しなど惚けた文章が出てくるとそこでひとしきり一人で“にやっ”とにやけては次に進む。読むテンポは決して速い方ではない。
 今回の暦連休(こちらにとっては毎日が連休みたいなものだが)もこの文筆家の文庫本「G馳走帖」を手にしてにやけていた。  初版は1979年とあるから40年も前の食べ物に関わるエッセイである。単行本で読んだことはないし、文庫本で読んだのもかなり遅くからでこの文筆家のファンになってからだから20年近く前に一度は読んだのだろうか、あんまりその記憶は明瞭ではないのだが、手にした。特別にグルメでもないし、蘊蓄を連ねるわけでもない、しかし酒類であればどこでも、いつでも何でも(ビールが格段好きで、限がないような飲み方をする)口にしたいという酒豪であるが、酒癖は悪くはない酒乱ではない、しかし、酒類を毎日の食卓に欠かせたくない、生活のリズムでもあるかのように口にしたいばかりに身の回りの知り合いから錬金術師のごとくに調達し、足りなければ今でいうサラ金から借金を繰り返し、常に金欠病で周囲に面倒をかけているが本人は一向にかまわない。食事の礼儀作法には育った環境のせいか厳しい、そして何をどこでどのようにして食事をしたか、はメモに残していてマメ、である。そんな文章を纏めて編集した本である。
 今回読んでいたその文庫本の中にこんな文章もあったのだ、とページの隅を折ったところを引用する。食肉の話だ。「・・・豚は生まれた時から人に食われるにきまっている様であって、その他に使い途もないであらう。若し豚に宗教があるなら、死後の人生は人間の肉体に宿ると云う事になっているに違いない。」と「玄冬観桜の宴」という一章の中で書いている。(玄冬に桜を観る?って言葉は仲間内での馬肉を食べる宴会のことをそのように洒落でいっているのだが)。
 この一章を前に読んでいるはずであるが、そこに何も今回のように、この一言で立ち止まることはなかったろう、と思うのだが今回読み直してみると「U田H閒」さんの勢いのあった時代とはかなり時間が経っているいる。確かに当時の食肉となれば「牛」がまず考えられる。雌牛は乳を搾られ、子を産まさせられ、る。雄牛は牛車で人や荷物を運ばされ、畑を耕す労力となり、種付けにもされるが、なんといっても「牛肉」を人様に提供するような多目的家畜である。「馬」は賭け事に鞭で尻を叩かれて走らされ、騎馬民族は砂漠を駆け巡ってへとへとになるまで戦争に駆り出される、馬車、として運搬用にも農耕馬としても使役させられる、「馬肉」用の馬も飼育されていて冬場には「桜鍋」として重宝がられる。そんな重宝がられている食肉動物連と違って、確かに「豚」は走りもせず、運搬用の「豚車」ということも聞いたことがない。役目は人間に食べられる食肉用だけに飼育される、専門の動物である。
 この世に生まれてきた以上は人間に食べられる運命にある。最近は「豚コレラ」とかいう疫病に罹った豚は高い感染率のために「殺処分」として沢山の豚が国内で埋められたという豚にとっては何のために生きてきたのだ、という嘆きがやまない。 
 文筆家「U田H閒」も大好好物であったらしい。「とんかつ」を何枚も一度に食べるという「とんかつ」好きであったらしい、という話をどこかで読んだことがある。当方もあの豚肉の厚めのロースかつの話を聞いただけで涎がが出そうだし、中華料理の「東坡肉」のあの脂身の旨さはこたえられない、おかずでは豚バラ肉の生姜焼きがご飯が進むし、ラーメンの上の紅又焼もいいし、金華豚で作ったハムでとったスープは高級な味だし・・・と好きな豚肉を使った料理は数え切ればきりがない。たぶん、馬肉より牛肉より食事で食べるのは豚肉の方が親しい(安価だ、ということもある)。
 人間様の食用以外に何か役に立っているか、と「U田」は言うのだけれど、“先生、豚は牛や馬より価値のある動物ですよ!”と言いたくなるような(先生は口をへの字に曲げて大きな目玉でこちらを睨みつけている、という風景が目に浮かぶ)話題を最近、知ったことを思い出した。なんでも人間の医療用に臓器移植に豚を使って研究している、最近、豚で育てられた人間用の臓器が研究され、実験されている、そして実用化はすぐだ、という話だ。なんでどうして、「とんかつ」などで食べるために病気に強い、おいしさが改良される、多産・養育期の短縮、人間の食用の肥育の効率化のための品種改良、という食用の豚のことではなくて人間の体内に豚の臓器を移植して病気の治療をする、という突拍子もない治療方法の話である。
 人間に近い動物で研究し、その成果を言うのなら理解できないでもない。よく医療研究などで残酷ではあるけれど「猿」などが人間に貢献しているという話は、中でもチンパンジーなどはよく聞く話であるが、あの豚を?という疑問に対して豚が人間の臓器に機能も大きさも一番近いからだ、という。人を小馬鹿にするときに言う「豚野郎!」とはもう言えない、隣の猿より豚の方が人間にとって親和性が高いらしいのだ。医学の方面の人たちは人間の生命が最も大事でそのための動物を介在させた医学が進歩しているという。生命の存在を人間の手で左右するような様々な実験が世界中でなされていて、今やゲノムの世界まで手を加えることができるようになって倫理的な問題まで論議されるようになってきている。「豚」の話では豚の臓器を人間に近い「猿」に移植した、という「人間」に移植する前段階のような実験がなされた、という。その「豚猿」は945日生存した、という。豚がもつ遺伝子が猿の中で急性拒否反応を起こしてしまう。この拒否反応を起こさないように遺伝子を操作するか、という実験がされ成功したというのだ。豚に人間のIPS細胞を入れて、入れられた代理豚の子宮で育ったウイルスに侵されていない子豚を生む。その子豚の臓器を人間に移植する、というプロセスが出来上がったという、ニュースであった。その臓器は「膵臓」だったように記憶するが、他の移植話題でも移植できる部位は「皮膚」(豚皮の靴やバッグ用ではなく)「心臓」(豚の心臓って強うのかなあ)や「肝臓」(酒飲みに多いといわれる肝硬変などの患者は豚の肝臓で助けられる」、ということか)が実際に試験されたということを聞いたことがある。臓器提供動物、として豚が専門に養豚され肥育されるようになる時代になってきた。 牛、馬、よりも(人間にとって)高等な役割を持つようになった豚を畜産業ではなくて医療機関で臓器別に専門肥育することになるのか。「豚」の寿命はおおよそ15年ぐらいらしいからというから人間の体に臓器移植された豚は長生きに貢献することになるだろう。あの豚を食さない宗教があるがその信者たちは臓器移植も望まないのかな。人間のいろんな部位で豚の臓器が移植可能となった場合、「豚人間」か「人間豚」か、不可能だとは考えるが人間最後の機能の人間らしさを司る豚か、あるいはほかの動物の「脳」の移植がゲノムの操作で出来るようになったならば・・・、そんなことはあり得ないな、豚の感情や思考能力を必要、とする人はいないだろうから(たぶん)。その前に「AI」が取って代わるかもしれない。
この文庫本を読み進めると「牛カツ豚カツ豆腐」という一文がある。「内田のヤツ、貧乏だ貧乏だとぼやいているが、あの野郎、家で毎晩カツレツを七八枚喰らい、人が来れば麦酒を自分一人で一どき六本も飲んで、その間一度も小便に立たないとほざいている。それを自慢にしてやがる、あん畜生」と仲間のS木三重吉に言われている。ここで言い訳が書かれていてカツはとんかつではなくて牛カツだという。ビールのつまみにカツは相性がいいのだろうか。そして終わりに近いところで「豚肉」の蘊蓄が述べられている。
 「豚には下等の白豚と上等の黒豚がある。黒豚は初め亜米利加に産した物だそうだが、後でシナに渡り、転じて英吉利でバークシヤイヤの飼育で独立した一品種になった。足と鼻と尻尾の先が一寸白いので六白と云う。この品種が一番うまい。」となかなかの知識である。「・・・ウヰー・ウヰーと豚が言った。What a big world this is!用心しなさい。・・・広い世界に人間の数は多い。人間は豚が認識するより、もっと利口である。特に私がそうであって、豚よりは賢い。」
 じっと睨んだような目玉で苦虫を噛んだような先生は「ま、どうでもよい。貴君はとんかつが好きかね。黒豚のとんかつでも食いに行こうとおもうが」と、今の時代に生きていたなら、そう言うにきまっている。子供のころ「食っちゃ寝てばかりいると豚になるぞ」と脅かされたものだが、豚を牛や馬より下に見て馬鹿にすると豚の臓器移植が普通の治療行為で求められたときなんて言うのかね。